消えがてのうた

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zoom RSS 柳田邦男とマタイ受難曲

<<   作成日時 : 2007/04/07 22:14   >>

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『私達が一日一日を平穏に暮らしていられるのは、この広い空の下のどこかで名も知れぬ人間が密かに自己犠牲を捧げているからだ。』     タルコフスキー

正しくは柳田さんの次男で故人の洋二郎氏と、マタイ受難曲というべきところかも知れません。
柳田邦男 『犠牲サクリファイス わが息子・脳死の十一日』 を読んだのは、もうずいぶん昔の話になりますが、自ら死を選んだ洋二郎さんの、その自死の試みから死に至るまでを看取った記録の中で、私が忘れられない文章があります。

生前、洋二郎さんは、「僕の村は戦場だった」で知られる、旧ソ連の映画監督タルコフスキーの作品「サクリファイス」に深く傾倒していらしたそうです。
深い精神性を探求し、後期から晩年にかけて、人類の救済をテーマとした作品を作り続けたタルコフスキーの遺作であるこの作品の冒頭と最後に流れるのが、バッハのマタイ受難曲の『憐れんでください、私の神よ』という美しいアルトのアリアです。
キリストに最も近かった弟子のひとりであり、キリストから愛された弟子であったペテロは、自らの死の恐怖ゆえに、捕らえられ、これから死に渡されるという主イエスを拒みました。
有名な「ペテロの否認」の場面です。
ペテロが裏切りを悔いて号泣したあとに響く美しいアリア『憐れんでください、私の神よ』はこのように歌われます。

    憐れんでください、私の神よ、
    私の涙ゆえに。
    ご覧下さい、心も目も
    御前に激しく泣いているのを。
    憐れんでください、
    憐れんでください!     

洋二郎さんの遺体が自宅に迎えられた、まさにその時、一体なんという偶然だったのか、たまたまNHKで放送されていたのがタルコフスキーの「サクリファイス」でした。
そしてテレビから流れていた曲がこのアリアだったというのです。

私は立ちすくんだ。洋二郎は神に祈ったことはなかった。かたくななまでに祈らなかった。
私も目に見えない大きなもの、全てを超越したものとしての神の存在への畏怖の念を抱きつつも、全身全霊を投げ出して祈るという行為をしたことがなかった。
だが、このとき私は神が洋二郎に憐れみかけ給うてほしいと心底から祈る気持ちになった。
どういう神なのかと考えることもせずに。
アリアの旋律はいつまでもいつまでも私の胸に響き続けた。

                    柳田邦男 『犠牲サクリファイス わが息子・脳死の十一日』


ここに見る柳田氏の祈りには、だれの神でもない、全てを超越した、ただ大いなる存在への究極の祈りがあります。
バッハの音楽という深遠な祈りから流れ出した、存在としての神への想いだと思います。。

画像

                        ラ・トゥール 「聖ペテロの否認」

 後年、同じようにこの「マタイ受難曲」を愛した武満徹さんの死の瞬間にも、なんという偶然か、ラジオからこの曲が流れていたことを知りました。
作曲の前には必ずこの曲を聴いていたという武満さんの話を聞くに付け、あまりの偶然に私の心は畏れとともに震撼します。

明日8日はキリストの復活を祝う祝日、イースターです。 

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タイトル (本文) ブログ名/日時
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消えがてのうた
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消えがてのうた
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バッハ BWV106 「ソナティーナ」 / モーリス・ドニ 『四月』
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消えがてのうた
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先月7月20日のお話です。 前から来客予定のあったこの日、先方の都合で急遽キャンセルとなりました。 突然降ってわいたような「何の予定もない休日」です。 さて、何をしようかしら、と思案する間もなく、「マタイを聴きに行こう!!」というMの一声で即決。 長野市のお隣、須坂のメセナホールでの「マタイ受難曲」演奏会です。 かろうじてチケットを入手することが出来来たのはまさに僥倖! ジョシュア・リフキン指揮による全曲演奏はバッハのオリジナル・スコアを忠実に再現した独唱、合唱含め... ...続きを見る
消えがてのうた part 2
2009/09/03 23:16

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コメント(30件)

内 容 ニックネーム/日時
偶然と言うより神のお指図と感じますね。
柳田邦夫の一文神の計らいを強く感じます。
素直な心が場面を作るのですね
叔父様の事と言い望む通りに成るのですね
何々教に属するのでなく、限りなき神に対しての畏敬の念でしょうか

私今日FM放送NHKを聞きながらモーツアルトのレクイエムが聞きたいなあと思っていましたら、午後2時の放送で始まったのです。
偶然とは思えませんでした。思わず有難う御座います。と感謝しました。

私の身勝手な解釈かも知れませんが…
icashiya
URL
2007/04/08 22:18
◇icashiyaさん
  おはようございます。

>偶然と言うより神のお指図と感じますね
私も時々考えます。
偶然と必然の間にあるものは何なのでしょうね。
誰でも「計らい」としか思えないような出来事を経験することがあると思います。それを計らいと感じ必然と受け止めるか、単なる偶然として流してしまうかで大きく違ってくるものがあると思います。

人生って不思議に満ちています。
「望めば成る」
それは他力本願的な発想ではなく、強く願うこと、願い続けることは前向きで積極的な心の動きだとも思います。




aosta
2007/04/09 09:19
 こんにちは。
 このアリアくらい、多くの人に影響を与えている音楽も、めずらしいのではないでしょうか。とても力を持った音楽です。
 記事を読ませていただいて、あらためて実感させていただきました。

 それ自体に大きなドラマを内包してますので、映画でどのように使われたのか、とても興味があります。機会があったら、ぜひ観て見たいです。

 タルコフスキーと言えば、「惑星ソラリス」が、SF大好き、だった、わたしにとっての、バッハ原体験のひとつでした。
 ピアノ教室の影響で、もう聴くのもいやだったインヴェンションが、なんて美しく心に響いてきたことか・・・・!
 なつかしい。(涙)
Nora
2007/04/12 17:36
◇Noraさん
  おはようございます。

「サクリファイス」ぜひぜひご覧下さい!!

このアリアの旋律が流れてくると、思わず襟を正してしまいます。
美しいというだけではありません。
「力のある音楽」、確かにその通りですね。
祈りの力、慰めの力、愛の力・・・

「惑星ソラリス」。
NoraさんがSFをお好きとは知りませんでした。
意外と申し上げたら失礼でしょうか?(笑)

電子音で流れるバッハのインヴェンション。
延々と途切れることなく続く映像のイメージとあいまって、神秘的な浮遊感に眩暈がするようでした。

謎に満ちた海。
繰り返されるバッハのメロディー。
懐かしいです。

aosta
2007/04/14 09:10
私のブログをみていただき、ありがとうございました。
早速、こちらを拝見させていただきました。少し私にはレベルが高いかとも思いますが、「ワイン」という文字があり大丈夫かと・・。
柳田邦男の本は、結構沢山読んでます、この本も読みましたが、よる年波で・・あまり覚えておりません。
レベルは別にして、趣味には共通項が多そうですので、よろしくお願いします。私も、ブログを昨年8月から始めました。
人生ゆっくり
2007/04/16 17:47
◇人生ゆっくりさん

早速においでいただきましてありがとうございます。
とても嬉しいです。

ワインお好きですか?
毎晩というわけにはいきませんが、私の一番楽しみな時間は、夜も更けた頃、ワイングラス片手にPCを開くときです(笑)
今日からは人生ゆっくりさんのブログにお邪魔する楽しみも増えました。

好きなことを好きなように書かせていただいているブログです。
そしてコメントをいただけることが嬉しいのです。
音楽を初め、映画や読書など共通の関心事が多い人生ゆっくりさんとご縁をいただけたことは本当に感謝です。
ブログを始めた時期も同じとの事、これからもよろしくお願いいたします。
aosta
2007/04/16 22:03
ブログを訪ねていただきありがとうございます。以前にコメントいただき感謝していましたが、その際はURLが分からずご返答もできず残念でした。これからは時々訪ねさせていただきます。柳田さんの本は小生も読みなんとも…。ちなみに2000年に、妻と「このミレニアムの1曲はなんだろう」と語らい、結果は「マタイ受難曲」となりました。
夏炉登仙
2007/04/19 15:15
◇夏炉登仙 さん
コメント嬉しく拝見させていただきました。

夏炉登仙さんのブログの内容は琴線に触れるものが多く、何回か書き込みをさせていただきましたが、その後忙しい一時期が続き、長いことご無沙汰をしてしまいましたことお詫びいたします。

その後私の方も落ち着きまして、昨年の8月からブログなるものを始めて見ました。徒然なるままの日記のようなものですが、これからもまた、よろしくお願いいたします。

aosta
2007/04/19 15:35
こんにちは。
柳田邦男の「サクリファイス」は、確かに読みましたが、細かい内容は、すでに、残念ながら、私の中にありません。
で、こちらの記事に立ち寄ったのは、実はそのラ・トゥールです。
2年前でしたか、上野の西洋美術館で、二度とないだろうと言われた数の彼の絵を集めた展覧会に、出かけました。いまだに、あの素晴らしい絵が、目の前に浮かびます。もう一度見たいと思う展覧会は、余り無いのですが、ラ・トゥールはもう一度見たいですね。あの光と影に、人生を浮き立たせているような絵が、素晴らしいです。それに、生きていた時代に背を向けたような制作姿勢も好きです。
ブログの記事に関係ないお話で、ごめんなさい。
沙羅
2007/04/20 15:32
◇沙羅さん
 コメントありがとうございます。

ラ・トゥール展、行きそびれてしまいました。
あのような企画はそうはないだろうと思うにつけ、返すがえすも残念!

>あの光と影に、人生を浮き立たせているような絵・・・

同じように光と影の画家と言われるレンブラントの光りには明晰な理性の光りというか、透徹した観察を感じますが、ラ・トゥールの光には、リアリスティックでありながら、どこかこの世ならぬもの、神秘的で聖性を感じさせるものがあります。
この「ペテロの否認」にしても、「あの男(キリスト)を知っているのではないか?」と訪ねられて三度まで「私はあのような人を知らない。」とキリストの弟子であることを否定したペテロの(作品の左上方、ろうそくの光に照らされている人物)一瞬の卑屈さ、弱さが、ゆらめく炎の中であらわになる瞬間を描いています。

人の心の内面を照らし出す光り。
時にはその弱さや愚かさをもあらわにしながらも、その弱さや愚かさを浄化するかのような光りがラ・トゥールの絵の中には満ちていますね。
aosta
2007/04/21 17:55
◇沙羅さん

>ブログの記事に関係ないお話で、ごめんなさい。

とんでもありません (^^♪
ラ・トゥール、私も大好きですから、むしろ大歓迎です。
どなたもこの絵のことについて言及してくださらなかったら、むしろ寂しかったとおもいますよ。どうも、ありがとうございました。
aosta
2007/04/21 17:59
 ラトゥール展、残念でしたね。
 あんなに写真と実物のちがいが大きいアーチストも珍しいのではないでしょうか。
 光はおっしゃるように超自然の光そのもの。
 闇も、写真ではただ暗いだけなのが、幾重にも重なってるように見えます!
 それらがずらりと並んでいるのを見た時、もう気を失うかと思いました。
 と、うらやましがらせる。(笑)
Nora
2007/04/22 09:24
◇Noraさん
 おはようございます。
そうでした!Noraさんもラ・トゥールがお好きでしたね(^^♪

>それらがずらりと並んでいるのを見た時、もう気を失うかと思いました

ううう・・・
ラ・トゥールの絵の前で気を失いたかったです(涙)!

昨年のラ・トゥール展でも、この「ペテロの否認」の展示があったかと思いますが、その際は彼の真筆ということになっていたのでしょうか?
今回マタイ受難曲に似つかわしい絵を、と思ってこれに決めたのですが、真贋の評価が未だ定まっていない作品ということなんですね。
確かにペテロの表情には少し深みがないようにも見えますし、何より絵の一番手前、逆光で真っ黒なシルエットになっている人物の左手の描かれ方は私が言うまでもなく、あまりにも不自然です。
従来のラ・トール作品に見られる神秘に満ちた静寂、必要な対象だけにスポットを当てるその洗練された構図と比較してみるとどうしても違和感を感じてしまいます。そうした意味でも、前回の展覧会での扱いが気になるのですが、もし何かご存知でしたら教えて下さい。
aosta
2007/04/23 09:14
 おはようございます。
 ラ・トゥールの場合、工房作でもすばらしい作品がたくさんあるので、真贋判定はむずかしいみたいですね。
 完成した絵は確かに神秘的なのですが、描き方は意外と職人的なのでしょう。(つまり、バッハといっしょ)
 いいかげんなことを言ってちがってるとかっこ悪いので、目録等で確認してからお答えさせていただきます。
Nora
2007/04/23 10:37
 わたしが行ったのは、2年前のラ・トゥール展(国立西洋美術館)でし
た。
 目録によると、この展覧会においては、一応真作扱いされていましたが、カッコ書きで(ラ・トゥールとその工房?)と表記されていたようです。

 この絵には、はっきりとした本人のサインと、1650年という年記があるので、ラ・トゥール最晩年の真作にまちがいありません。

 ただ、aostaさんがおっしゃるように、部分によって明らかに完成度が異なるため、以前から最晩年のラ・トゥール + 工房によって仕上げられたのではないか、と言われており、工房を継いだ次男のエティエンヌが中心になったのでは、という説もあったように記憶しています。
Nora
2007/04/23 22:01
 わたし個人の考えとしては、
 例え誰かの手が加わってるにしても、サインがある以上、(本人が認めたわけですから)真作と考えてよいのではないか、と。
 ペテロの表情も、「聖ペテロの悔悟(涙)」のなどすさまじさに比べると明らかに無表情で、それが工房作説の最大の根拠のようですが、
 考えてみれば、この時のペテロは、心と裏腹に嘘をついてるわけですから、むしろ、のっぺりしていた方がリアルなのでは、
 などと、ラ・トゥールを弁護したくなってしまいます。
Nora
2007/04/23 22:04
◇Noraさん

色々調べていただきまして、有難うございました。
私の不用意な質問のために随分お時間を取らせてしまいましたね。
申し訳なく思うと同時にお気持ちが嬉しく、ありがたくお返事を拝見いたしました。 そうなんですね。真作という扱いでいいとのこと、何だかほっとしたaostaでした。
絵の右側でサイコロに興じる兵士たちの表情はうつむいたその角度も合ってあまり良くわかりませんが、右側の二人、一人は野卑な表情でサイコロが振られるのを眺めています。
もう一人の一番右側の男は、何か訝しげな視線をじっとペテロに向けています。
今まで私がこの絵の中で一番ドラマを感じるのは、実はペテロではなくこの兵士のほうだったのですが・・・
aosta
2007/04/24 00:27
◇Noraさん

>考えてみれば、この時のペテロは、心と裏腹に嘘をついてるわけですから、むしろ、のっぺりしていた方がリアルなのでは、

この見方、感じ方にはほとんど唸ってしまいました。
なるほど、そう言われてみれば、そのほうが人の反応としてはるかに自然かも知れませんね。
このときのペテロの心境を慮ってみれば、自らの嘘に愕然としているペテロの茫然自失とした心の内が見えてきたように思いました。
このあと、我に返ったペテロは「激しく泣いた」と聖書にはありますね。号泣する前のペテロの哀しみが、突然私の胸に溢れました。     

    憐れんでください、私の神よ、    
    私の涙ゆえに。

今日も、Noraさんに大切なことを教えて頂きました。
ありがとうございます。
220.254.0.4
aosta
2007/04/24 00:31
 こんにちは。何度も失礼します。
 わたしの記事にトラックバックなさったのが運のつきと思って、あきらめてください。(笑)

> 大切なことを教えて頂きました。

 いつも申し上げてるように、わたしの言うことはすべて思い込みなので、話半分でお聞きになってください。(笑)
 aostaさんはご存知だとは思いますが、名作の誉れ高い「ペテロの涙」と比較できるページをつくってみました。
 よろしかったら、参考までにご覧になってください。
(→右のURL欄→)
Nora
URL
2007/04/25 14:18
◇Noraさま
  こんにちは。

>わたしの記事にトラックバックなさったのが運のつきと思って、あきらめてください。(笑)

何度でもおいで下さいな。
いつでも何度でも(はて?どこかで聞いたような・・・)大歓迎です!

”思い込み”というならば私もまったく同じです(=⌒ー⌒=)
毎回、まったくの的外れでないことを祈りつつのブログアップです。
Noraさんの「おまけのページ」拝見してまいりました。
あのように二つの作品、二人のペテロの表情を見比べてみますと、その描き方の違いが本当に良くわかりますね。
「ペテロの涙」においてはペテロ一人に画家の全てが渾身の思いを持って投影されているかのようです。固く組まれた両の手に、涙に濡れたその虚ろな眼差しに、ペテロの悔恨の深さと苦しみがひしひしと迫ってきます。
aosta
2007/04/26 18:30
続きです。

一方、工房作のペテロの無表情は無表情であるがゆえに、見る側の感情移入も可能なのかもしれません。
現に、Noraさんの文章を読むたびに、その表情は違うものに見えてまいります。不遜な言い方かもしれませんが、絵を見る面白さのようなものを感じました。
光りは、ラ・トゥールの絵の中からだけでなく、こうしたやり取りの中からも差して来るものなのですね。
aosta
2007/04/26 18:32
 こんにちは。
 いまさらで恐縮ですが、訂正+反省文です。(このごろ多いなあ)
 タルコフスキー監督の「惑星ソラリス」のテーマ曲は、
 もちろんインヴェンションなどではなく、
 オルガンのコラール・プレリュード、
 「我、汝に呼ばわる、主イエス・キリストよ」 BWV639
 です。
 先ほど自分のところのコメントにこの曲のことを書いていて、気がつきました。
 aostaさんが「電子音」とおっしゃったので、何となく違和感を感じていたのですが、もちろんaostaさんの記憶力の方がしっかりしていた、ということです。
 ごめんなさい。今後十分気をつけます。
 m(_〜_)m m(_〜_)m
Nora
2007/06/01 17:34
◇Noraさん

ごめんなさい。
お返事を書くのがすっかり遅くなってしまいました。
コメントをいただいたとき、すぐ読ませていただいたのですが、そのままになっていた失礼をお詫びいたします。

>もちろんaostaさんの記憶力の方がしっかりしていた、ということです

いえいえ、とんでもない!
時々びっくりするような勘違いをしていて、人を驚かせるaostaです。
aosta
2007/06/08 09:34
aostaさん、この度は拙ブログにご訪問いただきまして有難うございました!
常々、我々の心の動きと外の世界で起こる事象は繋がっていると感じることが多いです。すべてを超越した大いなる存在の力がそこに介在している・・・そんな風に感じていますが、記事を拝見していて、ますますそう思いました。

こちらの「ペトロの否認」、ペトロの表情が直視し難いです。
・・・これ、嘘をついたり、人の悪口を言ってるときの顔なんですよね。。。
目が濁っています。そして、右手の仕草は保身のポーズにも見えます。
心のなかの真実にはフタをして、外界の世界しか見ようとしない、聴こうとしないペトロ。
賭け事に興ずる兵士たちが中心で、ペトロが端っこに描かれているのは、目に見えない真実じゃなくて目に見えるものだけしか感じられなくなっているペトロを表わしているのでしょうか。
そして、鶏の声とともに被せたフタが外れるわけですね・・・。
Fu Shusei
URL
2007/08/02 23:12
◇Fu Shuseiさん おはようございます。
  こちらまでおいでいただきましてありがとうございます。
そして、とても嬉しいです。

ペテロの否認の亜面は、聖書の中でも最も悲痛であると同時に、ペテロに自分自身が重なるという二重の意味で辛く重い場面ですね。

ラ・トゥールによって描かれた二人のペテロ。
自らの保身のために、三度まで同じ嘘をついたペテロの表情は卑しく卑屈であると同時になんと空虚なことでしょう。
彼はまるで生気を失った木偶のように描かれています。
むしろ、ゲームに興じる野卑な兵士の方が生き生きとしています。

>そして、鶏の声とともに被せたフタが外れるわけですね・・・。

ペテロが「激しく泣く」前の、一種停止してしまったかの時間。
再び時間が息をを吹き返したとき、ペテロは身もだえして号泣するのですね。
この究極のドラマのまさに幕開けのような一枚です。

絵は、私のいろんな感性を刺激して、さまざまなイメージを膨らませてくれます。
Shuseiさんの文章もまた、私にはとても刺激的。
素晴らしいコメントをありがとうございました。

aosta
2007/08/03 07:49
この本は脳死(わたしは疑問におもっている)、が話題になっている頃読みました。息子の意識は全くないのに、髭だけは伸び続けている。。という記述が記憶に残っています。

私は無神論者だからバイブルの記述内容に興味ありませんが、数年前に読んだ柳澤桂子の『般若心経』(心訳?)の思想にはちょっと心動かされました。人間を構成する物質(細胞)は3年間で完全に入れ替わります。別の物体になるのです。それでも、わたし、がわたし、でありつづけるのはなぜか?柳澤桂子は色即是空空即是色、のうち、前半を強調しすぎているが、重要なのは、空即是色。つまり、虚構なるものを信じなければ人間は生きていけない。。ということだとおもいます。
古井戸
URL
2008/02/10 02:54
◇古井戸さん
 やっと、「マタイ」の御返事がかけるところまで参りました(笑)。

私は日本人が言うところの「無神論」は、西洋的というか厳密な意味での「無神論」とはいえないのではないかと、常々考えています。
「無神論」イコール「無宗教」ではないと思うのです。
特定の宗教、たとえばキリスト教とか仏教などに代表される教義や教えが思想的に完成されていなくても、たとえば日本人のほとんどの生理にしみこんでいる汎神論的な感性は、十分過ぎるほど宗教的であると思います。
そうした意味で柳澤桂子さんのいう「虚構なるもの」とは、「証明し得ないもの」と言い換えることもできるのではないでしょうか。
以前のブログにも書いたのですが、私はドイツの神学者にして反ナチの活動家であり、第二次大戦中に獄死したボンフェッファーの「神の前に、神と共に、神なしで生きる」という言葉が好きです。
aosta
2008/02/19 22:50
◇古井戸さん
 つづきです。

身体の細胞が全て入れ替わっても私が私であり続ける不思議・・・
白血病に代表されるガン治療の有効な治療法としての「骨髄移植」。
これは私にとって究極の不思議です。
身体を護るために自己と他者とを認識し、胎内に侵入した他者を排斥しようとする自己免疫そのものがすっかり入れ替わってなお、私が私であり続けるということは理解の範疇を超えています。
移植によって取り込まれた新しい健康な骨髄・血液幹細胞は、移植されたからだそのものをを他者とみなして攻撃します。
いわゆる普通の臓器移植とは正反対のこと、(移植された免疫系統が、認識している「私」は、移植された体の持ち主の意志「私」とは別のものなのです。)が起こるのです。
この場合の「私」とはどちらを持って「私」と言えばいいのでしょうか。「私」と私」との対立を経て新たに獲得された「私」は移植前の私と完全にイコールなのか、考えれば考えるほど不思議なことです。
aosta
2008/02/19 23:03
>「無神論」イコール「無宗教」ではないと思うのです。

これは、当然そうです。人類発生以後、ヒトはなにがしかを<信じて>生きていたはずです。しかしそれはセバイ共同体(個人、あるいはキミトボク、お隣さん)のなかで成立しており、誰かに伝えたりまして強制するようなモンじゃなかった。わたしは、そういうレベルでよろしいと思っています。
人間は言葉=虚構、なくしては生きていけない。それを、空即是色といったとおもっています。

あ、マタイでもらっていいすから。。私のことなど。。
古井戸
URL
2008/02/20 08:44
◇古井戸さん

セバイ共同体、という言葉は始めて知りましたが、何かを信じるという行為がそのレベルで十分だと言う古井戸さんのご意見には、深く共感いたします。たまたま私はキリスト教と言う信仰を持っていますが、これとても人にも家族にも教養するべきものではないと思いますし、私のキリスト教自体、根っこにあるのは多分古井戸さんの仰るセバイ共同体なのでしょう。

>人間は言葉=虚構、なくしては生きていけない

う〜〜〜ん!
これは目からウロコというか、ショックな言葉でした。
なぜショックなのかは個人的な理由によるのですが・・・

古井戸さん、大きすぎてとても”マタイで”などできそうもありません。
必死にかじりついております(笑)。
aosta
2008/02/21 08:37

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