消えがてのうた

アクセスカウンタ

zoom RSS 原田康子『挽歌』と ヴィヴァルディのト短調

<<   作成日時 : 2007/11/26 22:44   >>

驚いた ブログ気持玉 4 / トラックバック 0 / コメント 26


原田康子の「挽歌」を読んだのは10代も始めの頃だった。
その時点ですでに、「かつてのベストセラー」という感覚で読み始めたのも確かである。
翻訳ものの、それも古典ばかりを読んでいた当時の私は、ベストセラーなるものにほとんど興味はなかったのだが・・・

ある晩のこと、何の気まぐれか、見るつもりの番組もないままテレビのスイッチを入れた私の耳に飛び込んできたのがヴィヴァルディだった。
イ・ムジチ全盛のころである。
十中八九その演奏はイ・ムジチのものであったろう。
ストーリーの前後も知らない私の耳に響いてきたのは、ただひたすら焦燥感に駆られて追われるかのように流れていたヴィヴァルディの協奏曲集「四季」の中の一曲、ト短調の「夏」だった。

迫り来る嵐を予感するような、切迫した不安な旋律。
放映されていたのは、屈折した恋の物語、「挽歌」だった。
次の日、行きつけの書店でその「挽歌」のタイトルを見つけた私は、背中を押されるようにして、本を買い、その後はひたすら夢中で読んだ。
北の街、釧路を舞台にした,フランスの心理小説を思わせるエキゾチックでお洒落な小説だった。
ひと息に読み終わって、しばし逡巡した。
私はまだ恋に憧れて背伸びをしている、本が大好きな少女でしかなかった。


画像

夏の終わり近く、雑木林が明るく開けた草地で咲いていた野菊のひと群れ



先日この本を書店で見かけたとき、家を探せば何処かにあるはずだと思いながら、なぜかすぐにでもこの小説が読みたい気持ちに迫られて、その場で買い求めた。

それから二日。
今回、私はかつてのようにこの本を一気に読み通すということが出来なかった。
それはこの小説が、私の心に、生々しい痛みの感覚を強いたからであり、同時にかきたてられるような懐かしさと愛惜の想いが、ひと息に読み進む事を妨げたからでもある。

なんと愚かしいことに、私はこの本のタイトルを「晩夏」であると長いこと思い込んでいた。
考えてみれば不思議なことであるが、いまさらながら、タイトルが「挽歌」であることに気がついて愕然とした。
この物語はまさに「挽歌」としか言いようのない、愛と死を巡る物語であった。


桂木という男を愛するようになった玲子は、残酷かつ無責任な好奇心から桂木夫人と、その若い恋人との逢瀬を桂木に告げる。
”Cocu”という、哀れで、何処かこっけいな、さげすみの言葉と共に。
この両刃の剣のような言葉を持って桂木と玲子の恋は始まった。
病弱な上に左手が利かないというハンディを持った玲子は、繊細でエキセントリック、そしてロマネスクな夢物語を生きている。
彼女にとっての現実は夢のように甘美で実態のない、捕らえどころにないものでしかない。
その彼女の現実は、桂木との恋によって、夢物語から、一人の女を死に至らしめる過剰な現実に向かって走り始める。
玲子は、桂木のストイックで理性的な男性性に魅かれ、同時にその夫人である人の美しさ、もろさ、はかなさを愛するようになる。自分ではどうしようもない迷宮のような愛に迷い込んだ彼女は自分が愛で窒息してしまう前に衝動的破壊的な行動に出る。
自分と桂木との関係、桂木が妻の背信を知っていること。
そして自分が桂木だけでなく桂木夫人をも愛しているのだと言うこと。
そのすべてを桂木夫人に告白することで、玲子は自分の恋の不条理に挑戦しようとでもしていたのだろうか。


画像

ハラルド・ソールベリ「北の花畑」(1905年)、オスロ国立美術館




この物語の中で「現実」を生きているのは、玲子の家のばあやであり、玲子に誠実で素朴な恋愛感情を抱いている久田であり、玲子を結果的に現実の恋に引きずりこんでしまう桂木である。
玲子も桂木夫人も、夫人の恋人古瀬も、みんな現実の重さから離脱した、浮遊するような夢物語の世界に生きている。
あたかも繭のように閉ざされた世界は、玲子の急激で容赦のない愛ゆえに亀裂が入り、破壊される。
その崩壊の残酷なまでの美しさを、どう表現したらいいのだろうか。
克明に語られる玲子の心理に対し、一切の説明がない桂木夫人は、初めからこの物語の中の大きな謎である。
そしてこの謎は、崩壊した廃墟に取り残されたまま、最後まで解き明かされることはない。

初めてこの本を読んだあのときから、時間は流れ流れて、恋はすでに私の憧れではない。
またもちろん夢でもない。
恋が血を流す痛みを伴う現実であるということを、流れた時間は教えてくれた。
かつて、私よりはるかに年上で大人だったこの物語の主人公たちは、今やばあやを除いてみな私より年若い存在となり、玲子の苦しみや喜び、悲しみはいつの間にか私に近しい物となっていた。

桂木はどうだろう。
男性の心理は、その男性が若くても、また年かさでも、未だに私には測る事が出来ない謎である。
桂木夫人もまた、あの物語の中で息絶えたまま、あの時と代わらぬ謎めいた微笑を浮かべている。

かつてのベストセラーは出版されて50年を過ぎた。
今ではロングセラーとなったこの小説は、何十年と言う歳月を経て読み返されても色あせない力と、魅力を持っている。
それは冷たく洗練された文章と共に、玲子という強烈な個性が、未だ光を失わずにいることの証であるように思える。

ビバルディの「夏」の持つ暗い揺らぎと、ざわめく情念。嵐の予兆。
せきたてられるように繰り返される弦の響きを聴いていると、今も理由のない焦燥感と懐かしさが、甘く苦い痛みのように、あの旋律とひとつになって走り抜けてゆく。

あのとき、あの番組にこのヴィヴァルディが使われていなければ見ることのなかったドラマ。
そして出会うことがなかったかもしれない一冊の本。


テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 4
驚いた 驚いた
なるほど(納得、参考になった、ヘー)
面白い

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(26件)

内 容 ニックネーム/日時
 初めまして。こちらのブログの、時として心にさざ波がたつような、また深い部分にポトリと涙が一滴こぼれるような、静謐な文章のファンです。
 私は、ヴィヴァルディの同じく「冬」の第一楽章で映像が浮かびます。私の空想ですが、映画の一場面のように…。時々ビオンディの演奏で聴いています。
 
alex
2007/11/27 00:21
◇alexさん

はじめまして。
ようこそお出でくださいました。
そして嬉しいコメントをありがとうございます。

ビオンディ、「四季」でのデビューは鮮烈でしたね。
感情表現のとても豊かな演奏家だと思います。それまでのイメージが一掃されるような清冽なヴィヴァルディでした♪
「冬」の第一楽章、ヴァイオリンのソロは何度聞いてもいいですね。

最後になりましたが、どうぞこれからもよろしくお願いいたします。
aosta
2007/11/27 08:27
「挽歌」は懐かしい作品です。この本がべストセラーになった当時、私は用で札幌から列車で釧路へ旅をしました。着いたのは夜更けでしたので、なんとなく「さいはての駅に下リたち雪あかりさびしき町にあゆみ入るなり」という啄木のうたの雰囲気が、かすかにまだ残っているように思ったものです。翌日友人に面白い話を聞きました。「挽歌」の作中で、桂木の乗っているジープは多分自分の友人の会社の社用車を、作者が町中で見かけモデルになさったのではと想像しているのです。そんなとりとめのない話が気になっ
て、のちに森雅之、久我美子主演の映画のVHFを求めてしまったのです。aostaさんに、いきなりのコメント差し上げましたが、私も覚束ないながら書き始めました。お気が向きましたら見てください。ヒルデガルト・フォン
・ビンゲン検索中に知り、素敵なエッセー、詩など楽しく拝見しています。
SONNET
2007/11/27 12:38
あまり小説は読みませんが、この本が出版されてベストセラーになり、映像化されて、北海道に日があたり始めたように記憶しています。
イ・ムジチの「四季」もバロック音楽が聞かれるようになったきっかけだったような気がしています。
ひとつのことがきっかけで土地や文化に光があたるということは面白いことですね。
森の生活
2007/11/27 16:27
音楽と本との密接な結びつき、
それは一生消えることはないでしょうね。
ありがとうございました。
Stanesby
2007/11/27 23:14
ヴィヴァルディの「冬」はチラチラ降る雪を連想させ、ストーブの火入れ口から炎がゆらゆらするのが見えてきます。この曲の四季ならすぐ終わるのですが、又長い冬が始まるが、餅や芋をやきながら香シイ匂いや熱々のスープを飲みながら、あとの待ち遠しい春を待ち焦がれることになります。
イエローポスト
2007/11/28 01:00
「挽歌」は、読んだことはないのですが、aostaさんのお話で分かったことは、悪女のような玲子がとても魅力的ということですね。
今日の毎日新聞に‘あさのあつこ’さんのエッセーが載っていました。
「(前略)元々、物語や小説って毒だと思う。薬になるものより、毒になるものこそが面白いと思うんです。(後略)」
見出しが、「毒になるものこそ面白い」です。
前文も書き添えると
「高校では、サマセット・モームの小説『人間の絆』に登場する悪女ミルドレッドに、ものすごい衝撃を受けました。大人は、子どもに「立派な大人になりなさい」「良い人間になりなさい」っていいますよね。でも、その正反対の女性がこの小説の中にいて、こんなにも魅力的じゃあないかと。大人が言うような人間だけがすてきなんじゃないという、人間の多様性のようなものを(本の出会いから)教えてもらったと思っています。」
この新聞記事を読んだ後、aostaさんのブログを読んだので、なんだかつながっているように思えました。
lavie
2007/11/28 21:30
◇SONNETさん

初めてコメントいただきましたのに、ここ3日ほど留守をしておりましたので、お返事が遅くなりまして申し訳ございませんでした。
おいでくださってありがとうございます。
この本が出版されたのは昭和31年とありました。
北海道に初めて行ったとき「内地の人」と言われて驚いた記憶があります。単にそういう習慣だったのかもしれませんが、平成も間近だったあの頃にもまだそうした言い方(意識?)が残っていることに驚きました。
またそちらにもお邪魔させていただきますね。
ありがとうございました。
aosta
2007/11/30 05:59
◇森の生活さん

お返事が遅くなりまして申し訳ございませんでした。
所要で東京に行っておりました。
垣根に山茶花が色とりどりの花をつけていました。

>ひとつのことがきっかけで土地や文化に光があたるということは面白いこ とですね

北海道に限って言うなら、「氷点」がなかったら旭川のイメージも随分違っていたことと思います。またラベンダーですっかり有名になった富良野人気もテレビドラマ「北の国から」のヒットなしにはなかったかもしれません。
夕陽を反射して金色に輝きながら蛇行する石狩川の風景をはっきり覚えています。
aosta
2007/11/30 06:16
◇Stanesbyさん

>音楽と本との密接な結びつき

本に限りませんね。
時代や人、特定の出来事などと一度結びついた音楽は、その記憶から自由になれませんね。楽しい思い出、辛かったこと、だれかの表情・・・
瞬時にそうした物を思い出す、と言う点では「香り」に似ているかもしれません。
aosta
2007/11/30 06:22
◇イエローポストさん

コメントありがとうございます。
長い間雪と氷に閉ざされる北国の人々は、どんなにか春を待ち望むことでしょう。そして忍耐強く季節が巡るのを待つ間にも、火の燃える音や匂いと共に、暖かな思い出を紡いでゆくのでしょうね。
aosta
2007/11/30 07:33
◇lavieさん

>悪女のような玲子がとても魅力的・・・

同じ悪女でもミルドレッドと玲子は随分雰囲気が違います。
(『人間の絆』うろ覚えですが)
トルストイの「アンナ・カレニナ」だったかしら、「幸せは、みな同じ顔をしているが不幸はみな違う顔を持っている」という文章がありました。
これはそのまま「善人はみな同じ顔をしているが悪人はみな違う表情をもっている。」と言い換えられるかもしれません(笑)。
悪女とか小悪魔とか言われる人は、抗しがたい魅力と吸引力を持っている場合が多いですね。
「憎めない悪女」・・ちょっと憧れます。いまさら遅いかしら(爆)。
aosta
2007/11/30 08:04
ドラマや映画を見ててもすぐ悪女に目が行くちょびママです。
魅惑的な悪女が出てくるともう目が釘付け。
主役を食っちまえ!ってな勢いで応援しちゃいます(笑)
ま、私は小悪魔すらほど遠いので憧れるの専門ですが。。。
私もやや不健康な思考(嗜好?)を持ってるので屈折した人を見ると感情移入しちゃいます。
男心、私も分かりません。
昔から悪い男に惹かれちゃ辛い思いしてました。
嘘だと分かってても騙されてあげてました。
だから悪女になれないんだわ。。。(涙)
ちょびママ
2007/12/02 11:14
◇ちょびママさん

>屈折した人を見ると感情移入しちゃいます。

屈折した人、何処か影のあるひとって、なんだか惹かれますよね(笑)。
だいたいそういう恋はアンハッピーな結末を迎えるものなのですが、判っていても惹かれてしまう女心の哀しさ・・・
まあ、こうした屈折した不幸な恋愛だからこそ小説になるのでしょうが。

桂木という人物の造形も、私にはとても魅力的です。
理知的で決して感情的になることはありませんが、冷たくはない。
むしろ、つむじ風のようにくるくる変わる玲子の気持ちを受け止めよう、理解しようとしているようにも思えます。でもその優しさの根底にあったのは、妻に対する立ち枯れてしまったかのような愛情でしょうか。
お互いに求めても応えてくれぬ人を愛することの空虚な痛み。
愛は定義することができません。
男心だけでなく、人を愛するということ自体、大きな謎のように思います。

aosta
2007/12/02 20:40
実際に拝見したことはないのですが、おかしな物言いですが、読書をしているaostaさんの姿が浮かんで何か愛おしさを覚えました。もし失礼だったらごめんなさい。そしてaostaさんの繊細さ、薄氷がぱりぱりとひび割れていく微かな音が聞えてくるような感じすらします。
私の場合、ヴィヴァルディはどんな鋭さも激しさも不安もみな的確に自分に打ち込まれ、それらすべてを受け取った後には、すっきりとした爽快感を受け取る、といった曲です。しかしaostaさんの感じたところ、
>暗い揺らぎと、ざわめく情念。嵐の予兆 
で、またヴィヴァルディのすこし違った顔に出会いました。
恋は一種の錯覚から成り立つものと思っています。愛は赦し、受容でしょうか。これ以上は危険と思うと身を翻してきた自分は、現実というものを全く分かってはいないかもしれません。結局はいつも感情の域を出ることはない。文章の中できままに書き“遊ぶ”ことはあっても現実には走れない。これで小説なぞ書けるものかどうか、しかし、そういうことを潜ってこなかったからこそ見えるものもあるという気がしています。
どういうふうに生きてきたかというよりも摂理のままに、すこし怠け者のままに生きてきた、そんな感じがしています。
私は美人ではないので、また魅力あるほどの知性にも無縁だったので、すこし愚かなままいまの平凡さを歩んでいるようです。
一冊の本をこのように細やかに思い巡らせてみたいと思いつつ、思うばかりで人生が終わってしまいそうです。しかし楽しい頁でした。感謝!!
bunbun
2010/08/14 07:29
◇bunbunさん

やっと落ち着いてお返事が書けるようになりました。
長いことお待たせしてすみません。
この記事を書いてからもう3年にもなるんですね。
先頃の報道でNHKのこのドラマで桂木を演じた佐藤慶さんが亡くなったことを知り、感慨を覚えたばかりでした。
この小説が何回も映画化されそのたびヒットしたのも、原作の持つ力ゆえなのでしょう。

>薄氷がぱりぱりとひび割れていく微かな音が聞えてくるような繊細さ
とは、玲子そのものの表現ですね。
ヴィヴァルディの音楽は、「生きること」「存在そのもの」に対する玲子の不安、焦燥をさらにも煽りたてるかのように響いてきました。
ドラマのBGMで意識してバロックを聴いたのもあれが初めての経験だったように思います。「夏の嵐」を表象するト単調の、暗く激しい曲調が玲子の心理そのもののように迫ってきました。まだ恋にあこがれるだけの当時の私は、玲子の「無邪気な悪意」に満ちた恋に心魅かれながらも、その深いところまでは降りて行くことができませんでした。

まがりなりにもいくつかの「恋」を経験し、失うと言う経験をして今に至ったわけですが(笑)「恋は一種の錯覚から成り立つものと思っています。愛は赦し、受容でしょうか」と仰るbunbunさんのお言葉に、なるほどとうなづいております。愛することはもしかしたら相手を束縛することかもしれません。その想いを超えて、相手をどこまで解放することができるか。これも一つの愛の形でしょう。束縛も解放も痛みを伴います。果たして痛みのない愛はあるのでしょうか。この年になっても同じ場所で逡巡しているaostaであります。


aosta
2010/08/26 07:09
こんにちは。
やっぱり、お邪魔してしまいました。(^_^;)
が、途中のネタバレの部分からは読まずに飛ばしました。(笑い)
きっと、その部分がaostaさんが記事にしたかった部分なのでしょうね
二度、年月を経て読み返されたのですね・・
どうせ読むなら新しいもの・・と思ってしまう私は、そうした経験がありませんが、若い頃、それも恋に憧れる頃に読むのと、大人も大人、人生も秋の頃を迎えて読む物語は随分印象が変わったことでしょう。
なんだか、おしゃれな小説のようで、どんどん楽しみになってきます。
つれづれ
2010/10/28 13:04
◇つれづれさん

自分でお誘いしておきながら何ですが、コメントありがとうございました。
話の展開や感想については、お読みになってからの方が本を楽しめると思います。私は新刊も気になりますが、前に一度読んだ本を改めて読み返すということもけっこうあります。それも、二回だけでなく、(結果的にですが)3回4回と読み返す物もあります。
若い頃に読んですごく感激したはずの作品が薄っぺらく感じられたり、逆に全共感しなかった作品に心を揺すぶられたり・・・
年を重ねていろんな人生を見聞きし、また経験して、同じ文章に対しても感じ方がすごく違ってきていることに気が付きます。
初めて「挽歌」を読まれるつれづれさんがどんな感想をおもちになるのか、また聴かせて下さいね。
aosta
2010/10/29 06:37
過去読んだ記憶はないのですが、実家の本ばんこにあったので持ってきて読み返しました。原田康子さんの作品 全く読んだ記憶のない私ですが、原田ワールドには はまってしまいました。しかし、怜子にも桂木夫人にも全く共感が持てず 気持ちがわからないのです。それで何だか 悶々としています。読後感をどなたかに話したくコメントしました。
mamma
2011/05/23 21:02
◇mammaさん

古い記事を見つけてお読みくださったばかりか、コメントまで頂きましてありがとうございました(^^ゞ
この作品は、原田さんの処女作であり、まだ20代の頃の作品だったと思います。玲子のせつな的で、エキセントリックな行動は発表された当時センセーショナルな反響を呼んだとも聞いています。

>原田ワールドには はまってしまいました

一種、くせになるような独特の雰囲気が魅力的な文章ですね。
本を読んだ後の感想は、人皆それぞれ違うのは当然ですし、読んだときの状況や年齢によっても感じ方が変わってきます。それこそが読書の楽しみ。
私にしても、玲子や桂木夫人に共感しているという訳ではありませんが、今でもこの物語の持つ不思議な吸引力に魅かれています。説明のできない行動や理解できない行為は、気が付かないまでも日常の中にあり、むしろそうした常識や論理を超えたところで、人間だけでなく、世界もまた動かされているのかもしれませんね。
時間が経つことで見えてくる真実、というものもるでしょう。
玲子や桂木夫人の「真実」は物語の中で凍結したままですが、読む人ごとに違う真実があってもいいような気がします。

今現在、part2として(私のHNにリンクされています)新しいブログを更新しておりますので、お暇がありましたらまた遊びにおいで下さい。
またお目に書かれることを楽しみにしています♪
aosta
2011/05/25 05:03
自分だけの小さな世界で固まらないで、広い視野で大きな気持ちで受け入れなければいけませんね。ふっと、気付かされました。
そして、はるか昔の学生時代に言われた先輩からの一言 「人間は弱い生き物だよ」これもまた、思い出しました。
mamma
2011/05/28 21:29
◇mammaさん

再コメントありがとうございます。
私もそうですが、人は得てして自分の経験や価値観で、世界を規定してしまうようです。10に入れば10人の経験、価値観があるわけで(笑)、十人十色、とはよく言ったものですね。
私にとって読書とは、自分でせまくしてしまった世界に窓を開け、壁を壊すことなのかもれません。
人と人、世界と世界を繋ぐのはしなやかな想像力なのだとも思っています。
弱い人間でも想像力をもつことで、強くなれる、そんな風に感じています♪
aosta
2011/05/29 06:19
はじめまして。
知人である岸純信さん(オペラ歌手マリア・カラスに関する著作あり)について検索していて、こちらへ伺いました。
ブログのページを閉じがたく、いくつか拝見して引き込まれてしまいました。特に個室で寂しさに耐えながら一人で旅立っていったお兄ちゃんのことが心に残りました。
信州にお住まいなのでしょうか。今NHKで放送している「おひさま」の中で、これからヒロインが作ろうとしている赤い屋根の家(今日の放送でした)のようなたたずまいを感じました。

2011/09/08 10:09
◇Yさま

こちらこそ、はじめまして。
ようこそおいでくださいました。
そして嬉しいコメントをありがとうございます。

岸純信さんを検索していらして・・・ということは「消えがてのうた PART2」から足を延ばしていただいたと言う事になりますか?
そればかりか、コメントまで頂けて、ほんとうに嬉しいです。
パスワードを失念して管理画面に入れなくなる、というお粗末な理由で更新が出来なくなり、改めて「PART2」という形で出直してはみたものの、初めて挑戦したブログへの想いはひとしおです。何年も前の記事をお読みくださる方がいらっしゃるという事が何よりありがたく、感謝の気持ちでいっぱいです。

「約束」の詩は、あまりにも辛い記憶で、なかなか言葉にならなかった想いを20年近くの年が流れたあと、やっと言葉に出来たものです。
お読み下さったことで、「あ兄ちゃん」が生きていた日の証しをまたひとつ頂けたような気がしております。

「おひさま」は、私も毎朝見ています(*^_^*)
松本や安曇野は子供のころから慣れ親しんだ大好きな街でもあります。
現在は、松本から50キロほど離れた八ヶ岳山麓の山暮らし。
あの赤い屋根のおうちのような草原ではなく、雑木林の中の住まいです。

どうぞまたお越しください。
こうしてお話が出来ますことは何よりの喜びです。
aosta
2011/09/08 21:44
お返事ありがとうございました!

今日は近くの図書館で、西條八十訳の童謡集、シュタイナーのヨハネ講義録、それに「人生は廻る車のごとく」の3冊を借りてきました。どれも今日こちらのブログで目に留まった本です。

次に借りたいのは「死ぬ瞬間」。学生時代、哲学の先生のお部屋で、先生の背後の本棚にあったのがこの本でした。ずっと気になりながら手に取ることもなく。そして数年前、あの先生が亡くなられたことを知りました。今日久しぶりに題名を見て、読むなら今、と思ったことでした。

2011/09/08 23:10
◇Yさま

再訪、ありがとうございます。
「シュタイナーからキューブラー・ロスへ」の記事をお読み下さったのでしょうか。早速の反応、思いがけないやら嬉しいやら・・・ありがたい話です。

>読むなら今、と思ったことでした。

本との出会いとは不思議なもので、私など、十年以上も前に買ったまま読むことなしにひっそりと仕舞い込まれていた本を、ある日突然思い出す時があります。そしてページを開いて、この本こそ、今私が読みたいと思っていた本であることに気が付きます。まるで、大昔の私が、現在の私のために用意しておいてくれた本であるかのような錯覚を覚える瞬間です。
本が私に読まれる時を待っていてくれたのだ、と思う瞬間でもあります。

Yさんがキューブラー・ロスを手にとられたことも、そうした不思議なめぐり合わせの一つであったのかもしれませんね。もし私のブログをお読み下さったことで、何かが「繋がった」のだとすれば、これほど嬉しいことはありません。
aosta
2011/09/09 23:17

コメントする help

ニックネーム
URL(任意)
本 文
原田康子『挽歌』と ヴィヴァルディのト短調 消えがてのうた/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる