消えがてのうた

アクセスカウンタ

zoom RSS 「マリー・ノエルの祈り 」/ アドヴェントのともしび

<<   作成日時 : 2007/12/02 11:39   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 5 / トラックバック 3 / コメント 31



もしも私が、

自分の自我という最も高い山に

登っていくのなら、

もしも、私が、

大地も、大気も、目も、耳も、

足も、手も、生活も、

何もかもかなぐり捨てて、

自分の魂の最も高い頂きに

留まろうとするのなら、

その時、私は神に近づいていることになるのだろうか。

天に触れるためには、

どんな木によじ登ればよいのだろうか、

神にお目にかかろうとして登っても、

人間は失敗に終わる。

神は下ってこられる。

正しい人のところより、罪ある人のところへと

神は低く低く下ってこられるのだ。

 
マリー・ノエル 20世紀フランス カトリックの女性詩人
新教出版社 「いばらに薔薇が咲き満ちる」より



画像

ヤーコブ・ヨルダーンス [羊飼いの礼拝 ] 1617年頃
158×117cm | 油彩・画 | アントウェルペン王立美術館




今日から、新しい教会暦が始まります。
そしてその新しい暦は、アドヴェント(待降節)の第一週から始まります。
アドヴェントとは、12月25日からさかのぼって4回の日曜日を含む、クリスマスの準備の季節のことです。
今年は12月2日がアドヴェントの最初の日曜日。
キリスト教会ではこの日から、救い主(キリスト)をお迎えするための、心の準備期間に入るのです。
アドヴェントの語源は「来るべき」という意味のラテン語”adventus”。
キリストが来られるという約束と、その約束への期待をあらわしています。
日曜日の礼拝ごと、4本のロウソクを立てた『アドヴェント・クランツ』に、1本ずつ灯りを点していきます。
4本のロウソク全てに灯りが点されて、クリスマスを迎えます。


ところで、英語で「冒険」を意味するアドヴェンチャーという言葉。
このアドヴェンチャーも、同じラテン語”adventus”からきていると言われています。
「神の子」であるキリスト、イエスが、マリアという一人の人間の女の胎から生まれる・・・
人間に、その独り子を託した神様にとっても、乙女でありながらキリストを宿すという人類の誰も経験したことのない神の業(わざ)に身をゆだねたマリアにとっても、それは大きな大きな冒険であったに違いないのです。
それは大きな約束が果たされるための、胸の痛くなるような冒険の始まりであると同時に、
「まだ見ぬものを信じる」という、期待と喜びに満ちた冒険の始まりでもありました。

マリー・ノエルのこの祈り(詩)は、クリスマスのために書かれたものではありませんが、高みから人間を引き上げる神さまではなく、「自ら下ってくる」、それも正しい人のところにではなく、罪ある人のところにこそ下ってこられる神、心弱きもの、小さく貧しいものと共にいてくださる神さまへの、心からの美しい祈りの言葉です。

クリスマス前の4週間。
アドヴェントはクリスマスを迎える心の備えをする期間です。


テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 5
なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

トラックバック(3件)

タイトル (本文) ブログ名/日時
ヤーコプ・ヨルダーンス 『聖家族』  
もう先月の話になってしまいましたが、松本市美術館で開催された国立西洋美術館所蔵作品巡回展に行ってきました。 サブタイトルには「神々と自然のかたち」。 ...続きを見る
消えがてのうた
2008/02/08 07:35
20世紀の女流詩人 マリー・ノエル
【文化遺産公開日に行ったオーセールの町 その3】 この前にオーセールの町に行ったときには、橋の上にあった銅像を見て、Paul Bertとはどなた&... ...続きを見る
エスカルゴの国から
2010/09/29 15:25
グールモン「落葉」 拾遺
10月29日付けでアップした、ルミ・ド・グールモンの詩「落葉」 この記事頂いたコメントのやり取りが、不思議で、思いがけない展開となった顛末を書いておきたい。 ...続きを見る
消えがてのうた part 2
2010/11/07 11:14

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(31件)

内 容 ニックネーム/日時
アドベントに入りましたね。ろうそくが1本ともりました。
神は下ってこられる、しかも心弱く、貧しきもののもと・・・胸に灯りのともるような詩です。
森の生活
2007/12/03 12:53
私が入ってくるようなところではない・・と思いますが・・。
初めて聞く話でした・・、なるほどクリスマスは、そういう日なのですね。
人生ゆっくり
2007/12/03 19:06
 2日私は礼拝には行きませんでしたが、アドベントはおぼえていました。「まだ見ぬことを信じる」・・・ヘブライ人への手紙11章1節を読むと、いつも勇気をいただきます。
alex
2007/12/03 19:36
ノエルさんとは、そのものズバリの名前ですね〜

写真、遠慮無くどうぞ!
完成しましたら接続先を教えて下さい。
ふくやぎ
URL
2007/12/03 23:07
◇森の生活さん

私もこの詩が大好きなのですが、たまたま何年も前に書き抜いた詩。
その後、マリー・ノエルという詩人について調べてみたのですが、ほとんど何も判りません。何処かの古書店のサイトに出ていたのを見つけましたので、何とか入手して読みたいと思っています。

「低く低く下ってこられる神・・・」
心がそっと温かくなるような、悲しいような、慰めに満ちた言葉です。
aosta
2007/12/04 08:36
◇人生ゆっくりさん

>私が入ってくるようなところではない

とんでもない!!
こういう話題ですと、コメントを書きにくい方もいらっしゃるのではないかと遠慮しながらアップした記事です。
お読みいただいて、何か感じていただけただけで、本当に嬉しく思います。

よく日本人は無宗教と言う人が多く、また一種の宗教アレルギーのような感覚があるのではないかと思っていますが、では、日本人は信仰心が薄い国民性かと問われれば、それは違うのではないかと思うのです。
何か人智を超越した存在への畏怖の念は、時代が変わっても根源的な宗教的感性として私たちが持ち続けている、素晴らしいものだと思っています。そこにキリスト教だとか仏教だとか、またそのほかの宗教との間に優劣はない、とも思っています。もし足りないものがあるとすれば、それは互いの宗教に対する敬意ではないでしょうか。それまで知らなかったことを知ることは、そうした敬意を具体的にするものだと思います。

>初めて聞く話でした

そうした意味で、人生さんのコメントはとても嬉しいのです。
ありがとうございました。

aosta
2007/12/04 08:49
◇alexさん

おはようございます。
最近私は文語訳の聖書を読みたくてなりません。
文語には、口語にはない力と格調の高さがあるように思います。
「ヘブライ人への手紙への手紙」も文語訳で音読してみました。

>それ信仰は望むところを確信し、見ぬ物を真実(まこと)とするなり。
 古への人は之によりて証せられたり。
 信仰によりて我等は、もろもろの世界の神の言(ことば)にて造られ、
 見ゆる物の顕るる物より成らざるを悟る。
            「ヘブル人への手紙」 11:1〜3

aosta
2007/12/04 09:16
◇ふくやぎさん

>ノエルさんとは、そのものズバリの名前ですね〜

ご指摘のあるまで、その事に全く気がつかなかったのんきなaostaでした。
「ノエル」、フランス語でクリスマスの意味ですね。

>写真、遠慮無くどうぞ!

ありがとうございます。
先ほど書いてあった記事に写真を合わせてみたのですが、どう見ても写真負けしています(悲)。
ふくやぎさんの写真に助けて戴いて、勢いでアップしようかと・・・
aosta
2007/12/04 09:24
ヨールダンスの絵、光が集まったいい絵ですね。
「東方三博士の礼拝」も好きなテーマです。
一度だけ教会のクリスマスミサに行ったことがありますが、
たまには世俗にまみれない本来の意味のクリスマスもいいものだと
思いました。
うさみ
URL
2007/12/04 18:22
aosutaさん、とうとうブログ開設しちゃいました!
これからも どうぞよろしくお願いいたします!
ちょろえ♪
2007/12/04 20:09
 わざわざありがとうございました。嬉しいです。
 私の所属教会は「新共同訳」を使っていますが、それ以前の私が昔から持っているのも口語訳なんです。口語訳にはない力が伝わってきました。
alex
2007/12/04 21:07
日本の苦しい時代にミッション系のスクールに居り、文語の聖書を読んでおりました。口語訳より格調が高く、いまでも古びたその聖書を大事にしています。マリー・ノエルの詩は、今はじめて知りました。「人間には、その求めるものを、見出す力があるかどうか。自分があんな長い間かかって探求して得たものは、結局なんだったのか」その問いにモンテーニュはいかなる答えを用意したんでしょう?わたしにはなんとなくノエルに近いような気がしています。家にあるエセーのページは閉じられたままです。
SONNET
2007/12/04 23:06
◇うさみさん

>光が集まったいい絵ですね。

最初、ラ・トゥールの「羊飼いの礼拝」にしようかとも考えたのですが、はヨルダーンスのなんとも素朴で慈愛にみちたこのマリアの表情に引かれてこちらの作品に決めました。
「光と影」の画家として知られるラ・トゥールは大好きなのですが、この「羊飼いの礼拝」に限っては、キリスト誕生の羊飼いたちの純朴な喜びの表現を真っ直ぐに描き出したこのヨルダーンスの作品が好きです。
マリアと幼いキリストは、背後からのカンテラの灯りに照らされているというより、母と子の内面から放たれている暖かく神聖な光に包まれているように見えてきます。
aosta
2007/12/05 08:05
◇ちょろえ♪ちゃん

おはようございます!!
ブログ開設、おめでとう。
なんだか自分のことのように嬉しく思います。
これからお邪魔いたしますので、待っててくださいね!
aosta
2007/12/05 08:08
◇alexさん

再コメント、ありがとうございます♪
私が教会で使っているのも「新共同訳」です。
「口語訳」も、この「新共同訳」も同じ”口語”なのですが、私には以前の「口語訳」の方がしっくり来ます。
カトリック、プロテスタントの別なく同じ聖書を使うという「共同訳」の趣旨は素晴らしいと思いますが、判りやすく、ということを第一にしていくとどうしても平易なことばになり勝ちで、同時にことばの持つ本来の力や美しさと言うものが失われていってしまうような気がしています。
ちなみに私が通う教会で、牧師はじめ他の方が使われているのは「新改訳」です。そして私は、どうもこの「新改訳」になじめません。
と言うわけで次善の策「新共同訳」(笑)
aosta
2007/12/05 08:23
◇SONNETさん
 コメントありがとうございます。

>いまでも古びたその聖書を大事にしています

私も実家にあった古い文語訳を読んでおりました。
SPレコードといい、我が家ではいつまでも古いものが幅をきかせており、時にはうっとうしく感じていたころもありましたが、今となっては、とても幸いなことであったと思います。
あのころ文語訳の聖書に親しんでいなければ、日本の古典への敷居は随分高いものになっていたのではないかしら。
文語のリズムの美しさは、私に日本語の美しさをも教えてくれました。
万葉集も本来読むものではなく詠じられたもの。
言葉と文字が本来の力に満ちていた時代の素晴らしい文学だと思います。
aosta
2007/12/05 08:33
>神は下ってこられる。
正しい人のところより、罪ある人のところへと
神は低く低く下ってこられるのだ。

繰り返し、声に出して読んでみました。
私がキリストに惹かれる理由のひとつは、まさにこの点にあるのだと思います。
マリー・ノエルさん、気になりますね。
ノエルさんもそのものずばりのお名前ですが、昔お世話になっていたアメリカ人宣教師さんの奥様のお名前がクリスチャンさんでした。クリスチャンのクリスちゃんってアメリカには沢山いるんだろうなぁ・・・なんて妙なことに感心していました。
待降節 第一主日は、蕁麻疹に負けてきょーかいに行けませんでした
・゚・(ノД`)・゚・。
Fu Shusei
URL
2007/12/05 16:28
◇Fu Shuseiさん

こんばんは。
コメントありがとうございます。

>クリスチャンのクリスちゃんって

いらっしゃいますね。クリスちゃん(笑)。
その後、お体の方はいかがですか?
いくらかでもお薬が効いてカイカイは軽カイなさったでしょうか?

低く低く下ってこられる神・・・
哀しみを共にしてくださる神・・・
本当に「この神様だからこそ」、ですよね。

お身体、お大事に!

aosta
2007/12/05 20:26
明日(2008/12/24)がクリスマスイブですね。
マリー・ノエルさんの詩を読みました。
「天に触れるためには、
どんな木によじ登ればよいのだろうか、
神にお目にかかろうとして登っても、
人間は失敗に終わる。」
とありますが、「天に触れるために、何かの木をよじのぼり、神様にお目にかかろうとしても失敗してしまう」とあります。
上の方に登ってもいいと思うのですけど、その木の上の方に向かって、自分の助けたい多くの人々がいるとマリー・ノエルさんが考えても良かったかもしれませんね。
その木の葉っぱのように、助けたい人とか罪ある人がぶら下がっているとか。
そうすれば、その木を登るのにマリー・ノエルさんは苦痛は無かったのではないかと思います。
坂本誠
2008/12/23 16:53
続きです。
聖書には「受胎告知を大天使ガブリエルがマリアに行った」とありますが、イエスを産んだ後に、大天使ガブリエルがマリアに何かの告知を行った、とは書かれていませんから、その後、ひたむきに天使の語った言葉を信じて、育てた、と言うのは、かなり聖母も苦しかったでしょう。
「まだ見ぬものを信じ」て、生んだ後でも、本当に自分の息子がメシアに育つまでは、かなりの忍耐が必要だったでしょう。
(そのイエスが「メシア」と認められたのも、イエス昇天後の約200年ぐらいだったそうですから、聖母も生前には、それを確認できず、自分の息子がメシアと確認したのは自分の昇天後だったでしょう。)

「罪ある人のところにこそ下ってこられる神、心弱きもの、小さく貧しいものと共にいてくださる神さま」という考え方は、日本の親鸞さんの浄土真宗と同じだと思います。
では、良いクリスマスを。
坂本誠
2008/12/23 16:54
◇坂本さん

コメントありがとうございます。
この詩の中でマリー・ノエルが言う「木」とは具体的なきではなく、神様に近づこうと高いところを仰ぎ見る精神のあり方を「木」という言葉で言い表したのではないかと思います。
そう考えれば、その木を登っていくのは、自分ひとりだけです。
人が己の力にのみ、信を置くならば神様に近づくことは難しい。
自分の限界を知ったとき、初めて人は神様へ一歩近づくことができる、ということなのではないでしょうか。
そして神様は、何度も何度も失敗して悔やんでいる人間のところにこそ、手を差し伸べてくださる、誰にも顧みられないと思っている人に神様は光を投げかけてくださる、そんな風に私は読みました。
aosta
2008/12/23 20:55
◇坂本さん

>日本の親鸞さんの浄土真宗と同じだと思います。
「歎異抄」でしたか、「悪人正機説」の中で親鸞が言っていることに、このマリー・ノエルが言っていることはすごく近いと思います。
親鸞は、正しい人が救われるのならば、誰よりも救いを必要としている悪人が救われないはずはない、というようなことをおっしゃっていたと思います。こ(こで言われている「悪人」とは、いわゆる罪人という意味ではなく、すべての人間や仏から見放された人、という意味で悪人、という言い方をしているようですが)

私は、何かの宗教が絶対とか、この宗教でなければ救われないとか言う考えには共感できません。キリスト教であれ仏教であれ、行き着くところはひとつ、と思っています。
坂本さんもよいクリスマスをお迎えください

aosta
2008/12/23 21:11
反省文です。
先ほどのコメントに、
「その木の葉っぱのように、助けたい人とか罪ある人がぶら下がっているとか。」とか、書きましたが、これはちょっと良くない表現だと、あとで思いました。
向上したい気持ちとか、人を助けたいとか、それはおこがましいのではないだろうか?と書いた僕自身が、思いました。それよりもマリー・ノエルさんのように、いつまでも、自分は低い位置にいて、周囲の人に助けられており、「ありがとう」を言える人間でなくてはいけないのではないのか?と思いました。
ほんのわずかの一行にも、その人の心とその人の悩み事や日々の関心事が現れるので、「文章を書くのは難しいなあ」と常々、思います。
そうかと言って、何も語らない、と言うのも、それもいけませんし、かと言って、デリケートになり過ぎても、いけないと思います。
坂本誠
2008/12/23 22:13
反省文の続きです。
>自分の限界を知ったとき、初めて人は神様へ一歩近づくことができる、ということなのではないでしょうか。

幼子のような心になるって、難しいです。悩みの無い人間はいませんから、いつも日々、悩みます。最近は心作りに日々、悩んでいます。いや、「最近」では無く、「人は生まれてから、死ぬまで」ですね。、、、、、
難しいですね、、、、、
では。
坂本誠
2008/12/23 22:14
◇坂本さん

坂本さんんはとても純粋なかた、ある意味傷つきやすい繊細な感受性をお持ちになっていらっしゃる方だという気がしています。

>幼子のような心・・・

ごく最近、子供っぽいのと、子どものように、とは違うという文章を読んでとても共感しました。「子どもっぽい」にはへつらいや未熟さ、甘えのイメージがありますが「子どもらしい」という言葉には、何か初々しいもの、健やかなもの、これから育ってゆく力のようなものを感じます。
そして何よりも素直で謙虚、人への絶対的信頼があります。
信頼、ほど強いものはない、と思っています。
aosta
2008/12/23 22:27
マリー・ノエルの生まれたオーセール町で彼女の銅像を見たとき、一緒にいたフランス人が「心の優しい詩人で、特に子どもたちから慕われた」と教えてくれたのですが、aostaのこのブログを読んで見て、とてもすっきりと彼女がどんな人だったかが見えてきました。どうもありがとうございます。

アドヴェントの解説も、とても心温まるものでした。こちらフランスでは、伝統的なクリスマスリースはテーブルに置く形で、4本のロウソクが立っています。クリスチャンの人には特別な意味があるのだと分かりました。偽善的な信仰心を見せる人には反発を感じてしまう私ですが、心の底から自然にある信仰心には惹かれます。

書かれた日記が余りにも良かったので、マリー・ノエルについて書いたブログにリンクを入れてしまいました。ご迷惑でしたら削除しますのでお知らせください。私の日記はURLのところです。高齢のマリー・ノエルのインタビュー・ビデオにもリンクを入れていますので、よろしかったらご覧くださいますか? お顔と話し方を聴くだけでも、皆から好かれるような人だったのだろうなと伝わってきます。
Otium
URL
2010/09/26 04:40
◇Otiumさま

お越しくださいましてありがとうございました。
リンクしてして下さったとのこと、光栄です。
マリー・ノエルに関しましては、詳しいことを存じませんでしたので、何より嬉しく思います。
キリスト降誕の喜ぶびである「ノエル」を、自身の名前に選んだことには深い思いがあったことを知り、改めて感慨を覚えました。
よろしければこちらにTBをお願いしたいのですがいかがでしょう?

また、現在こちらのブログは更新しておりませんが、Part2という形で継続しておりますので、お暇なときにお立ち寄りいただけましたなら幸いです。
Otiumさまのブログにも伺わせてください。
遠くフランスのからのお便りをありがとうございました。
aosta
2010/09/26 09:13
リンクのご許可、ありがとうございます。TBも入れさせていただこうと思ったのですが、ウェブリブログを持っていないと不可能なようなので諦めました。TBは変なのが入ってくるものなので制限付きにしているのは良いことですが(私のブログではTB不可にしています)、申し訳ありません!

更新が途絶えているので残念だと思ったのですが、Part2があると教えていただいたので、それも読ませていただきます。一気に斜め読みにするのはもったいないブログなので、少しづつ。

マリー・ノエルは銅像を見て詩人だと知っただけで終わってしまうところだったのですが、ブログから垣間見たaostaさんのお人柄と重なり、さらに、とりあえず拾って読んだたaostaさんの記事(病院でナースコールを切られて寂しく亡くなった男の子のお話し)にズシンとしたものを感じたのも加わって、マリー・ノエルが近く感じられました。

再び調べてみて気がついたのですが、彼女はアドヴェントの時期に亡くなっているのですね...。安らかな死を迎えることができた方だろうと思います。
Otium
URL
2010/09/27 07:36
◇Otiumさま

TBの件、ご丁寧にありがとうございました。
マリー・ノエルについてはまた何かの折にかけたらと思っていますので、そのときにリンクをさせてください<m(__)m>

>Part2があると教えていただいたので、それも読ませていただきます
ありがとうございます。Otiumさんのブログも共感したり触発されたりする内容がありそうで、私もゆっくりお邪魔させていただこうと楽しみにしています。また「約束」をお読みくださったとのこと、ありがとうございました。
早すぎる死ではありましたが、(また傍目にはどうあれ)あれは「神様の時」だったのかもしれません。あの男の子もマリー・ノエルも、共に安らかに「神様の時」に迎え入れられたのだと・・・
aosta
2010/09/27 19:21
トラックバックの入れ方をよく知らないので、TBを入れるのは不可能とお返事したのですが、もしかしたら私の方のブログから送信するのかと思いついて実験してみました。送信してすぐには表示されかったので、やはりこのやり方ではないのだと思ったのですが、しばらくしたら入ったのですね。

こんな感動を与える記事に私が気楽に書いた記事へのTBが入り込んだのは厚かましくて気がひけるのですが、悪しからず! マリー・ノエルについては日本のサイトではほとんど紹介が見つからないので、ご興味を持ってクリックしてくださった方に少しでもお役にたてたら幸いです。
Otium
URL
2010/10/01 15:25
◇Otiumさん

おはようございます。
TB無事掲載いたしました。
確かにネット検索しても、マリー・ノエルに関する照会がありません。
Otiumさんの記事から彼女の生前のビデオを見られることは素晴らしいと思います。感激です。本当にありがとうございました。
aosta
2010/10/02 06:38

コメントする help

ニックネーム
URL(任意)
本 文
「マリー・ノエルの祈り 」/ アドヴェントのともしび 消えがてのうた/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる