消えがてのうた

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zoom RSS キューブラー・ロスからシュタイナーへ

<<   作成日時 : 2008/03/07 21:23   >>

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前から気になっていたエリザベス・キューブラー・ロス(1926〜2004)の自伝「人生は廻る輪のように」を、昨日やっと読み終えた。
その間、ずっと感じていたのは、今読むべき本を読んでいるという上気する高揚感だった。

キューブラー・ロスは代表作とも言うべき著書「死ぬ瞬間」によって、従来の死の概念を変えたとも言われている精神科医であり、生涯を通じて終末医療に取り組み「生と死の扉」を開け放った人でもある。
その最初で最後の自伝の中でロスが言っていることは、生きること、愛することが命の目的であり、「死」でさえ生きることの一部であるということであった。



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そして今日、私は朝から一冊の本を探していた。
何ヶ月か前に買ったまま手付かずにあった「シュタイナー ヨハネ福音書講義」。
平積みの本の中からやっと見つけ出したあと、私の半日はこの本を読むことに費やされた。
最終章を読み終えて本を閉じたとき、私は一種の虚脱感と同時に精神(こころ)が大きな開放感で満たされていることに気がついた。
ルドルフ・シュタイナー(1861〜1925 オーストリア出身の思想家、教育学者)を読みたいという唐突な衝動は、確かに、昨日読み終えたキューブラー・ロスの本によって促されたものであったと思う。
だからと言って、あらかじめこの本の内容を知っていたわけではない。
強いて言うなら、神智学に基づく「ヨハネ福音書」の読み解きは、従来私が知っていた、若しくは知っていると思っていたそれとはかなり異なった解釈であろうといった、獏としたイメージだけだった。
あたかも、「人生は廻る輪のように」が導いたかのような「ヨハネ福音書講義」との出会い。
それが正しい啓示であったのだろうか、この2冊の本は私の中でごく自然にひとつに重なった。


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     初めに言(ことば)があった。言(ことば)は神と共にあった。言(ことば)は神であった。
     この言(ことば)は、初めに神と共にあった。万物は言(ことば)によって成った。
     成ったもので、言(ことば)によらずに成ったものは何一つなかった。
     言(ことば)の内に命があった。命は人間を照らす光であった。
     光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
                               
                  ヨハネによる福音書1:1〜5 日本聖書教会 新共同訳



新約聖書4福音書の一冊「ヨハネによる福音書」は、この印象的で力に満ちた言葉で始まる。
「私」が「私である」という自我を獲得するために、人間は言葉を与えられ、人となった。
kこの「言葉」とは文字通りの意味での「言葉」である。
言葉なくして思考はなく、したがって自我も存在しない。
「私」が言葉を、すなわち独立した自我を手中にして、自らが全体の中の一部ではなく、「他者」としての立ち所を得たとき、初めて人は自分以外の「他者」という存在を愛することが出来る。
シュタイナーの言う「自我」とは、愛することを可能にするための自我である。

ヨハネ福音書で言われる「言・ことば」、ギリシャ語で「ロゴス」が意味するものは、ヨハネによればキリスト・イエスのことであった。
そしてシュタイナーは、「ことば」、つまりイエスを人格をもった「宇宙意識」または「地球意識」として認識する。
それは神的、霊的意識であり、全てのいのちを育むものであり、人間と世界を繋ぐ究極の愛そのものとしての存在である。

数え切れないほど多くの死に立会い、死の意味を問い続けてきたキューブラー・ロスがたどり着いた「生きることの意味」は、「どれだけの愛をあたえ、また受け取ってきたか」という、人生最後にして最大の問いにどう答えるかということであった。
この人生の究極の問いに答えるための準備が、生きること、つまり愛することだと彼女は言う。
私には、「ヨハネ福音書」において、シュタイナーが言っている「たえず高次元へと進化する愛」もまた、ロスが見出した「無条件の愛」の理解へと繋がって行くように思えるのだが。

キューブラー・ロスもシュタイナーも、オーソリティーとしての現在の「キリスト教会」からは、本筋から逸脱したキリスト教理解として認識されているのが現実かもしれない。
しかしキリスト教がキリスト教であり続けようとして、かたくなに他の宗教を否定することは、ただ教会の形骸化しかもたらさないと考える私はクリスチャンとして過激なのだろうか。
キューブラー・ロスも、シュタイナーも違う時代に全く異なった紆余曲折を経験しながら、深い信仰の模索を経て、今までキリスト教会が排除してきた普遍的な神として”キリストを超えた”キリストに到達したのかもしれない。

魂を育てること、愛を育てることに死は不可欠の経験であり、死は終わりではない。
死によって学び、死を超えて生きる。
キリストの愛は与えることによって自らにも与えられ、「人と人」、「人と世界」との関係を変えていくものである。
同時に愛は、高みを目指して絶えず成長してゆくものなのだ。

教会のいう「キリスト教的愛」と「キリストの愛」との間には微妙な齟齬がある、と感じる私は変だろうか。
教会が「キリスト教的愛」に固執するあまり、本来の「キリストの愛」が見失われつつあると思えてならないのは、私の先走った偏見なのだろうか。



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コメント(29件)

内 容 ニックネーム/日時
ご無沙汰しております。
ちっとも過激とも思いませんでしたよ。
むしろ、そういう今の生きている教会の問題点をずばっと言い切られたことを歓迎したいと思います。

最近私が思っているのは、神は言葉を発した瞬間に低俗になってしまうということです。言葉には必ず差別・区別が内在します。しかも神の言葉を人間が書いたのが聖書であるとするなら、尚更歪んでしまうように思うんです。

私の中にある神は、もちろん見えないもの、そして語らないもの、だけど人間のようなちっぽけで嘘つきな存在では誤魔化しようもない、とてつもなく大きな畏敬あるものなのです。最近はそれで十分に思っています。
 
Stanesby
2008/03/07 21:51
私もご無沙汰しております。その後お加減はいかがでしょうか。当記事を興味深く拝読しました。

私は教会音楽のよりよい演奏を目指してキリストの教えを識りたいと思い、断続的に教会に通っています。aostaさんが呈された命題は生涯を通じて問い続けることであり、またそうすることこそがその答なのかもしれない、その様に私は感じます。

求道者のタワゴトとご笑読下さい。お邪魔しました。
Tenor1966
2008/03/07 23:02
私はこの二日、野村一彦の本来ならばオフレコであるべき性質の本を読んでおりました。彼は前回のブログで名前を上げた野村あらえびす(胡堂)の長男で腎臓結核の病で21歳で惜しくも夭折した人で、その内容は神谷美恵子さんとの間の淡い恋愛が主調音になっている日記です。ここには>シュタイナーの言う「自我」とは、愛することを可能にするための自我である<とも言える純粋で自分の心にひたむきな愛が如実に語られています。彼は敬虔なクリスチャンでもあり、ガラテア書を愛し神の子であり人の子であったイエスに帰依し、美恵子と添うことを願いながらも若くして死んでしまうのですが、キューブラー・ロスの言う「死ぬ瞬間」五つのうち、果たして彼はどの感覚でその一つを受け止めていたのか?、aostaさんの論旨とはかみ合わないのを承知で、一彦と美恵子の「愛と死」をいま少し考えてみたいと思うのです。
sonnet
2008/03/08 01:18
◇Stanesbyさん

おはようございます。
コメント嬉しく拝見いたしました。
ちょっと最近いろいろ考えること感じることがございまして、たまたま読んだこの2冊に共感しました。
ヨハネ福音書で追われている「言・ことば」は、私たちが話しているような言葉とは、若干意味が違うかもしれません。むしろここでは、一つの意識としての力が充溢したエネルギー(聖書的に言えば神の霊そのもの。ルーアハ若しくはプネウマ)といった意味ではないかと思います。
aosta
2008/03/08 06:02
◇Stanesbyさん、つづきです。

>言葉には必ず差別・区別が内在します

この場合の「言葉」、これは語るための言葉、本来の意味での言葉のことだと思いますが、確かに「言葉」に差別や区別がついて回ることは真実ですね。
言葉の持つ両極の力、育てること、損なうこと。若しくは肯定と否定。
いずれも諸刃の剣です。聖書の中で語られた神は、少なくとも今日にあって沈黙していらっしゃいます。
今まで多くの人が沈黙する神に答えを求めてきました。
沈黙もまた言葉であることを考えるとき、この問いはまた神の沈黙は大きな意味があるのではないかと思います。

けれどもそれとは別の意味で教会はもっと発言すべきだ、と思います。
教会は沈黙するのではなく、もっと開放された場所、受容の場所としてキリストの愛を知らす場所であって欲しいと願います。
aosta
2008/03/08 06:04
◇Tenor1966 さん

ようこそおいでくださいました。
こちらこそ御無沙汰しております。
音楽は言葉、それも最高の言葉だと思います。
音楽は人を傷つけません。音楽によって心は高みに引き上げられ神様を感じ、その思いがそのまま賛美となって昇華していきます。
信仰があるなしに関わらず人智を超えた存在を感じる、それこそが音楽の力なのだと思います。音楽は濾過され結晶した言葉なのかもしれませんね。
aosta
2008/03/08 06:13
柳田邦男氏の推薦本に「死の瞬間」があり、読んだことがありますが、読むとホスピスの必要性や患者と家族の死にたしする認識のかい離。これをどう埋めるか。
死に行くチャート(ガン告知された場合を例に考える):衝撃→否認→怒号→取引→抑うつ→受容→希望(死にもあるそうです)。
医師や患者の家族も読むとどう受け入れるかの過程だけはすくなくとも分かるのではないでしょうか?
イエローポスト
2008/03/08 07:11
とても考えさせられますね。
私もaostaさんが過激だとは思いません。
この記事をありがとうございます。
シュタイナーと言えば、昔娘達が小さかった頃、ちょっとはまりまして、蜜蝋クレヨンや蜜蝋粘土などのシュタイナーグッズを取り寄せたり、ウォルドルフ人形を作ったりしました。
近くになかったので行かせられませんでしたが、シュタイナー幼稚園に憧れました。
オイリュトミーなどでは特にシュタイナーの宗教的な考え方が反映されていて、キリスト教のようにも異端的(?)にも思えました。
Cecilia
URL
2008/03/08 08:40
 aostaさんのこの記事を、今の私への課題提示また応援のメッセージとして読ませていただきました。シュタイナーは一時期興味を持ちましたが、思想を理解しようと思うと一人で読んでいるだけでは難しく、いつの間にか離れていました。aostaさんを通して、またその深い思想にふれることができました。ありがとうございました。
alex
2008/03/08 17:06
> 神の沈黙は大きな意味があるのではないかと思います。

全くその通りだと思います。
私が通っていた教会は「キリスト教の祈りは感謝の祈り。希うものではありません。」と教え、日本の八百万の神さまに対する懇願の祈りを軽視していました。ところがその教会は毎週請い願う祈りを礼拝の中で公然としていました。僕はキリスト教の神さまは愛着があって好きなのですが、キリスト教のこういうところが嫌いなのですね。しかも「神のお告げがあった」とか「神がこう仰ってるから」ということを口にされる方は軽薄だと思ってしまいます。神は黙して語らず。特定の人にだけ自らの口で教えを授けるわけがありません。みな悩んで苦しんで神にすがって、そして自ら答えを見つけるのです。そうして苦境を乗り越えたり、問題が解決できて、それは尊い神の仕業であると感謝して祈るのだと思います。

変でしょうか。
Stanesby
2008/03/09 08:02
私はちょっと、いやかなり変わった人間かも知れません。
でも、いまの私はキリスト教信者ではありません。
自分にとって、もっと普遍的な、もっともっと大きな神の存在を信じています。ええ、神の存在というよりも、人間には到達しえない全能のもの、そうしたものを自分の人生の中に据えています。

私はずっと宗教音楽に興味を持っていました。そしてどんな宗教であれ、祈る人の姿は美しいと思っていました。宗教音楽の背景を知りたいと思いました聖書も読みました。仏教の法典も読みました。儒教、朱子学、ちょっとかじりました。

そしてとあるキリスト教会に近づきました。
幻滅しました。

Stanesby
2008/03/09 08:08
「シュタイナー」が語っている宗教観は、お定まりの概念に囚われない人間の真実。〜教という名前のもとに定義されるものではないと考えています。
キリスト教である必要はありません。でもキリスト教であってもかまわない。

道端の小さな花。空の青さ。季節のめぐり・・・そんななんでもないことに愛情を感じる。そんな感動が自我につながる。
そして自我を芽生えさせたちっぽけな人間の中には愛しい宇宙が存在する。人間をとりまく大きな宇宙。森羅万象。
人間の存在は大きな宇宙に包まれた小さな宇宙。
その幸せが信じられたら人は無限の勇気を感じることができる。
大いなる神の存在かもしれません。
その神は大きな宇宙の中にも存在するでしょう。
そして自我。小さな宇宙の中にも存在します。

薫風
2008/03/10 12:07
つづき

言葉では言い尽くせない存在。
言葉で語ったらそれは言い訳にすぎなくなってしまう。


もしも、言葉で語るとしたならば、
昔々の物語の中に語られてきた真実。
シュタイナーといえばミヒャエル・エンデ。
「はてしない物語」・・ネバーエンディング・ストーリー
「モモ」
冒険物語の中に一人の少年、そして少女の自我と勇気。
そして自分を取り巻く者たちへの厳かな、そしてかけねなしの愛。
神の存在は優しく無限のものになるでしょう。

そして、これは音楽に感動する心だったりもするように思うのです。
シュタイナーは「楽器を一つお持ちなさい。そして、こうあるべきだ。ではなく自分が感動する音楽を奏でなさい」と言っています。


音楽と共にある喜びは自我を持って愛することでもあり、祈ることでもあり、生きることそのものだと思います。

*私にとって「シュタイナー」は信仰と言ってもいいくらいの存在です。
ありがとうございました。

薫風
2008/03/10 12:08
自分には、
『生あるものには、死がある。』という現実と
『バランスの上に成り立っている宇宙が、存在する。』という現実があるという認識しか持てず、
宗教的なことや哲学的なことはよく分かりません。
pale moon
2008/03/10 19:49
辛い別れがあり、いつか途切れる、終わりが来る事ばかりを思い、愛する事も愛される事も怖れてた時期は生きてる実感がしませんでした。
いろんな出来事を受け入れ、愛する喜び、愛される幸福を感じられるようになった今は自分の中に体温を感じます。
生きてると実感してます。
愛するという事の前提には信じる事が必要ですね。
信じる事も頼りすぎて盲目になってもいけませんが。。。
ちょびママ
URL
2008/03/11 03:04
◇sonnet さん

お返事遅くなりました。
わが国のハンセン氏病について語るとき神谷美恵子さんの名前は避けて通ることの出来ませんが、浅学ゆえ野村一彦さんとの恋愛については、今回戴いたコメントで初めて知りました。
多感な青年期をカトリック的環境の中で過ごし、新渡戸稲造らの薫陶をも受けていた神谷美恵子さんと、熱心なクリスチャンでいらした野村一彦さんとの間にどんな愛の交感があったのでしょう。
シュタイナーは「愛の霊性」について、また自由な自我から自由な自我へと働きかける「キリストの衝動」について語っています。付け焼刃のにわか仕込みの知識ではありますが、野村一彦さんの神谷美恵子さんへの愛は、この「キリストの衝動」につらぬかれた愛であったのではないかと思います。
「死ぬ瞬間」の五つの段階、野村さんはすで自らの死をも含めて最終的には「受容」されていたのではないか、そうであって欲しいと思いました。
「日記」を読んでもいない私の勝手な憶測にすぎませんが。
aosta
2008/03/11 14:21
◇イエローポストさん
コメントありがとうございました。

柳田さんのご本には死についてのさまざまな考察がありますね。
「来るべき死」をどう認識し、受け入れるか、は死に行く人のみならず、患者家族や医療従事者も含めて、明確な死の概念を持ち得ない現代の私たちにとって大きな試練です。
ただキューブラ・ロスやシュタイナーのように「死をも内在させて働きかける命」という認識に近づくことは多いな助けと慰めになるかもしれませんね。死はいつも命と手をたずさえて存在しながら、私たちは生きている間その「死」に直接関わることができませんが、死について考えることは生きることについて命について考えることと同じなのでしょう。
死を大切に考えることによってしか「生」そのものに尊厳を与えることは出来ないのだとも思います。

aosta
2008/03/11 14:33
◇Ceciliaさん
 こんにちは♪

>私もaostaさんが過激だとは思いません。

Ceciliaさんにそう言っていただけるとすごくほっといたします(笑)。
神様と一対一で向かい合う信仰と、組織としての教会とはどうしても相容れない部分があるように思えてなりません。
特に教会が拡大していくとき、その傾向は顕著に現れるのではないでしょうか。人間の組織の限界は、常のそのトップ(指導者)力量を超えることはできない、とは一見極論のようにも見えますが真実だと思います。
異なる意見にも耳を傾ける謙虚さと懐の深さ、個人でも難しいことを組織に求めること自体、無理があるのかもしれません。

蜜蝋クレヨン、私もわざわざ取り寄せたものです(笑)
オイリュトミー、身体と精神全体で感じる調和。ある意味ではディオニュソス的アポロン的とも感じられる部分が「異端」なのかも(笑)・・・
aosta
2008/03/11 15:33
◇alex さん

シュタイナー、奥が深いです。
私もかじった程度なのに偉そうな記事をアップしてほんとうはおっかなびっくりなのですが(笑)。
偶然続けて読んだこの2冊が私の中でシンクロしてしまったので、どちらか片方だけについて書くということができませんでした。
ついでに申し上げればこの後読んだ一冊の本(スタージョン「夢見る宝石」)にも大きく共振する部分があってちょっとドキドキしています。
こちらはブラッドベリを思わせる、けれどもけしてブラッドベリのコピーではない、素敵なSF小説です。
「命の目的」を巡る不可思議な物語・・・お時間がありましたらぜひ御一読ください。シュタイナー的死生観や「愛」と共通する物が溢れています。

aosta
2008/03/11 15:34
◇Stanesbyさん
 再コメントありがとうございます。

乞い願う祈り、は軽んじられるという傾向は確かにありますね。
しかし心の底から乞い願う祈りはそれがいずれの宗教の祈りであっても美しい私は思います。祈りの前に人は低くなります。
どんな祈りであれ、祈ることは、至高の存在、私たちには感知できない大きな存在に向けて頭(こうべ)を垂れることです。
自分を無にして自分以外のもののために希う、これは人間の必然的な祈りのかたちだと思います。
というより、祈りは何らかの権威を振りかざして否定されるべきものではないと思います。
そして本来祈りとは「隠れて祈るもの」。人と神様が一対一で向かい合うことではないでしょうか。ましてや、人に見せるための物でもなければ、特定の人間や組織のために祈りがあるのではないと思います。

aosta
2008/03/11 15:35
◇Stanesbyさん

>幻滅しました

私の周りにも教会と言う人間関係に神経をすり減らして礼拝に出られなくなった方が少なからずいらっしゃいます。
霊的に満たされる礼拝を求めても、借り物の言葉しか与えられない礼拝は悲しいです。聖書が唯一絶対であり、聖書の「学び」だけが良しとされ、場合によってはそれ以外の知識は悪であるといった見解がまかり通ることさえあります。相対する物を知ることによって自らが見えてくることもあると思うのですが、他宗教への尊敬や、理解しようと努力する教会はあまりないように思います。
aosta
2008/03/11 21:47
◇Stanesbyさん

続きです。
けれども教会にもいろんな教会があります。
プロテスタントとカトリックだけでなくプロテスタントとの中にも数多くの宗派がありますし、たとえ宗派は同じでも教会が違えば人が違います。
どこの教会、どの牧師(神父)であっても神様は一つ、と言う考えは間違いだとは思いませんが、無理をして違和感のある教会に繋がろうとしても決して良い結果にはならないと思います。少し距離を置く期間があっても、また違う教会を知ることも何かの転機になるかもしれません。
神様の存在を感じられるところ、それは必ず教会でなくとも良いのではないか。「教会」は真の信仰を持つ人々が集うところにこそあるのではないでしょうか。かつての教会の原型エクレシアのように。
aosta
2008/03/11 21:49
> 乞い願う祈り、は軽んじられる・・・

aostaさんの基調に同感です。
私は礼拝の中で、正々堂々とこいねがう祈りを捧げているクリスチャンを見ますと、ぞっとします。aostaさんが仰っているように、人間として、わかっていながら神に縋らざるを得ない状況で、神にこいねがうのであれは、それは聖書の教えのように、一人で、部屋に閉じこもって、神と対峙すべきと思うんですね。教会で神にすがる祈りを捧げる信者、それがどんなに立派なキリスト教用語で語られた祈りであっても、私の心は動きません。装飾されたうそっぱちの祈りにしか聴こえません。

教会に疑問を感じ、足が遠のいている人の中に、僕は本当のクリスチャンの姿を見出したように思います。
 
Stanesby
2008/03/11 21:58
◇薫風さん
 コメントありがとうございました。

ミクロコスモスとマクロコスモス、どちらも大きくて深い秩序と神秘を包含した宇宙ですね。
空間的無限の宇宙、時間的悠久の宇宙、私たちはその中で生かされているのだと思います。
aosta
2008/03/11 22:00
◇pale moon さん

こんばんは。
確かに一般的には宗教と政治の話はご法度、という行きかたが安全なのかもしれません。でも私が何かを語りたいと思ったとき、キリスト教的な見方はよくも悪くもついて回ります。そのことを強調するつもりも、また隠すつもりもないのです。自分が感じたことを書きたいと思うときブレーキはかけたくありません。
まただからと言って、宗教や哲学についてどれだけのことを知っているかといえばお恥ずかしい限りなのですが(汗)!!
「生きていること」の素晴らしさ、有り難さを真実感じられたら、それだけで十分です。本来、言葉など要らないのです。

aosta
2008/03/11 22:08
◇ちょびママさん
 おはようございます♪

>愛する事も愛される事も怖れてた時期は生きてる実感がしませんでした。

全くその通りですね。
人を愛すること、それは全身全霊で相手に自分を注ぎ込むことではないかと思います。でもそれは自分を殺して相手の影になることではありません。
自身の足でしっかり立っている自分がいてこそ愛することが可能になるのだと思います。シュタイナーのいう「自我」とはまさにそうした自分自身のことを言っているのだと思います。ましてや盲目的に愛すること、信じることは真に愛すると言うこととは違うんですよね。
愛するという積極的な魂の働きかけが私たちを深いところから抱きしめてくれる、生きていると言う実感を与えてくれるんですね。
素敵なコメントありがとうございました。
すごく嬉しかったです。
aosta
2008/03/12 08:11
◇Stanesbyさん
 おはようございます。霧の朝ですね。

>装飾されたうそっぱちの祈りにしか聴こえません。

美しい言葉で飾られた祈り、整然と流れるように整った祈りが「正しい祈り」とされることには、私も大きな疑問を感じています。
増してこのような真実の想いを伴わない祈りが、それも特定の個人のための祈りが公然と「教会の祈り」として祈られることには少なからぬ怒りさえ感じてしまいます。自分たちの都合や利益のため、また、クリスチャンのためにだけ祈ることの傲慢さにに誰も疑問を持たないのでしょうか。
あたかも自分たちだけが選ばれた人間であるかのような錯覚と驕りがあるように思います。人は神様の前にみな平等です。神様は分け隔てなく私たちを慈しみ愛してくださるのですから。
aosta
2008/03/12 08:25
興味深く拝見しました。そして、この二冊の本もaostaさんの言葉も私にとっては励みになりました。
私はキリスト教からはなれて(といって教会に通っていた訳ではないのですが)、また近づこうとしています。聖書だけが今は頼りですが、教会に属していない分、考え方は自由になれます。仏教も当初の仏陀の教えから逸脱していったように、キリスト教もそうなのかも知れません。キリストを超えたキリスト、感銘を受けました。私はすでに異端ですが、自分の信仰を大事にしようと思います。言葉が足りなくて申し訳ないです・・・。
琳々
2011/05/18 14:25
◇琳々さん

古いブログをお読みくださったばかりか、丁寧なコメントまでお寄せ下さったことに感謝します。

>私はすでに異端ですが

多分、私も(笑)。
そもそも「異端」という言葉に、教会が教会として強大な世俗権力を手にしていく過程で切り捨てられていった、かつてのキリスト教諸派のこと。いろんな意味で教会自体がキリスト教の拡大に際して変容して行ったことを思うと、今確立しているキリスト教が絶対だとは思えないのです。
現在のキリスト教会は、ローマの国教として認知された時代から、取捨選択を経て現在に至っているのですから。

キリスト、若しくはキリスト教会を超えたキリスト。
神様は大き過ぎて、私たち人間のちっぽけな思惑など意に介していらっしゃらないような気がします。宗教と言う枠をこえたところにこそ、本当の神様はいらっしゃる、そんなふうに思うこの頃です。
aosta
2011/05/19 06:23

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