消えがてのうた

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zoom RSS 高森草庵のイースター

<<   作成日時 : 2008/03/23 11:12   >>

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「さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、
マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。」
 

                              マタイによる福音書28:1 新共同訳

御復活の前夜から行われる高森草庵の深夜のミサに行ってきました。
ドミニコ会司祭である押田神父様が1964年に開かれた高原の小さな草庵は、お隣の富士見町にあります。

押田神父様は仰います。

「ここは、弱い者や貧しい者が自分達の手で自給自足し乍ら修道的生活をするところです。
弱い者が、依頼心という最大の病気を癒やすところであり、貧しい者が、貧しい心の報酬を受取るところです。そして、思想と宗教の如何を問わず人々が冥想のために、人生の杖を休めることの出来る小さなオアシスとなるべきところです・・・」

押田神父が亡くなられたあと、規模的に小さくなったとはいえ、来る者は拒まない、おおらかで霊性に満ちた、まさにエクレシアとしての教会の、あるべき一つの形として、その志は引き継がれています。
            

画像



閉ざされた闇の中、月明かり、星明りだけを頼りに、道を確かめ確かめたどり着いたのは、御ミサが始まる30分ほど前でした。

車から降りて白々と照りわたる月の光の中、冬枯れの木立を抜けていくと、小さな茅葺きの御聖堂が見えてきました。
押田神父様がおいでになる以前、かつては観音堂と呼ばれていたその建物の中には一本のろうそくの明かりだけが静かに灯っていました。
今日集まったのは神父様とお二人のシスター、信者の方を合わせても10人たらず。
ミサの最初の10分間は沈黙の祈りの時間です。
深々とした闇の中、粗朶のはぜる音、雑木林を吹き抜けていく風の音に誘われるようにして、静かな祈りの時間が深くなっていきました。

『光は闇に打ち勝った』
光は復活のキリストであり、命の象徴です。闇は死、それも終わりのない死と罪の象徴。
神父様のお言葉に従って一同は御聖堂を出て、近くにしつらえられたかがり火からそれぞれのろうそくへと火を移していただきます。
再び御聖堂へ戻ったあとは、創世記の一章から始まって、イザヤ書、マタイ福音書、ロマ書と聖書が読まれ、シスターがネウマ譜によるラテン語の典礼聖歌を低い声で先導なさいます。
闇とわずかなろうそくの灯りの下で、静かに祈りの時は過ぎて行きました。


画像



神父様が身に着けていらっしゃるのは、祭服として一般的に着用される刺繍入りの華やかなものではなく、草庵でシスターが織られたという、織り目も粗い質素な手織りのガウンとストラ(ストール)です。
粗朶を燃やして火鉢代わりに暖を取っているのは古い茶釜。
御聖体のパンは小さな漆のお盆に盛られています。
ぶどう酒を頂くのは、お抹茶茶碗を思わせる手びねりの陶器です。
そして長い年月を経て黒光りする板敷きの床は、手をつく度、膝を崩すたびに、ウグイス張りさながらの音を立てます。

全てが必要最小限。
それゆえの開放感、つつましいがゆえの豊かな喜び。
たった10人そこそこで一杯になる小さな御聖堂に満ちているのは、まるで世界の果てで祈りを捧げているような張り詰めた静寂と、その果てにあってなお、今この世界が、祈りを通じて一つになっているという豊かな平安でした。


ミサが終わり、長い眠りから醒めたときのような清々しもく満たされた思いとともに、御聖堂を出て母屋に移ると、シスターが御復活のお祝いに、心づくしのお茶を用意してくださいました。
そば粉とそばの実だけで焼いた香ばしいケーキはふきのとう入り、バターと胡桃がたっぷりのパウンド・ケーキ、そして甘酸っぱくて薫り高いハーブ・ティー。
ミサが始まったのは午後11時でした。
童女のようにあどけなく笑う、もう60才も幾つか過ぎた、いえ、もしかしたら70も超えていらっしゃるかもしれないシスターたちに見送られて草庵を後にしたときは、翌日の午前3時を回っていました。


「あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。
さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。それから、弟子たちにこう告げなさい。
『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。
そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたには伝えました。」
婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに伝えるために走っていった。」


                          マタイによる福音書 28:6〜8 新共同訳


復活の喜びを一刻も早く知らせようと、夜明けの冷気の中をひた走った女たち。
彼女たちを走らせたのは、湧き上がるような歓喜。また驚き。
そして彼女たちの知らせを受け取った弟子もまた走りに走って墓へと急ぎました。

「二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。身を屈めて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中に入らなかった。続いてシモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。」

                          ヨハネによる福音書 20:4〜6 新共同訳

                     

三日前、十字架から降ろされたキリストの遺体は亜麻布で包まれ埋葬されました。
弟子たちは、遺体が失われ布だけが残されているのを見て主の復活を了解したのです。
とはいえ、彼らに戸惑いがなかったと言えば嘘になるでしょう。
弟子たちがキリストの復活を確信するためには、復活されたキリスト御自身が、自らを現してくださるまで待たなければなりませんでした。


八ヶ岳の星も大きく空を巡り、夜明けは間近です。
残念ながら自ら走ることが苦手な私は、車を走らせて、まだ暗い早暁の道を急ぎました。



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タイトル (本文) ブログ名/日時
「心の貧しい人々は」について
「心の貧しい人々は」について ...続きを見る
春日町まで
2008/05/02 22:06

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コメント(21件)

内 容 ニックネーム/日時
 aostaさん、ありがとうございます。
 高森草庵でのミサのようすが、aostaさんの言葉から、今まるで目の前でミサがおこなわれているかのように、静かで厳かだけれど生き生きとした映像になって目に浮かびました。そして、私も祈りによって一つにされている喜びを感じました。これからまた、感謝の祈りを捧げます。
 それにしても、富士見町にそのような所があることを初めて知りました。
alex
2008/03/23 19:39
◇alexさん

おはようございます。
「心の貧しいものは幸いである」と言う言葉の本当の意味が少しわかったような気がします。ここでイエスが言われた”貧しさ”とは物的、経済的貧しさでないことは言うまでもなく、むしろそうした物への欲望からの開放であり、自らを誇ることなく、神の前に合っては自らを低くし、人に対しては謙遜であるといった心のあり方ではないかと思います。
貧しくあればこその自由と喜び、そのことこそが幸いであると、イエスは仰られた。高森にはこの”貧しさ”が誇らかにも美しく輝いています。
グリフォードの詩「昇天のマリア」(過去記事のリーメンシュナイダーでも引用いたしました。URL添付しましたので、よろしければもう一度お読みください)の中にある「マリアはもはや何ひとつもっていない」という一節に究極の貧しさを見るような気がします。
aosta
URL
2008/03/25 08:18
すばらしい祈りの時間をもたれましたね。
今年の復活祭は早くてまだ雪の残る3月でした。まだ肌寒い朝にきく復活の喜びはまた格別でした。
森の生活
2008/03/25 08:55
>弱い者が、依頼心という最大の病気を癒やすところであり、貧しい者が、貧しい心の報酬を受取るところです

この言葉に涙がはらはら落ちました
カルメルでのアスピラント時代を思い出しました
aostaさんとの出会い 神に感謝
MYブログのブックマークに登録させて頂きました
(↑ 事後報告ですみません 不都合ありましたら
 ご連絡下さいね)
今日はusagiさんのパソコンを強奪して
コメント書きににきました
今後とも(永遠の国でも)よろしくお願いします(笑)
una
2008/03/25 10:06
◇森の生活さん

コメントありがとうございます。
去年のイースターは4月でしたね。2週間違うだけで雰囲気は随分違います。
もう随分前イタリアに旅行した際イースターホリデーということでどの街も美しい花でディスプレイされお店のショウウィンドウもイースターの飾り付けでにぎやかだったことを思い出します。
イエスさまの御復活を祝う気持ちと、春の訪れを待つ気持ちが重なった素敵な光景でした。まだ肌寒い3月のイースターでした。
クリスマスとはまた違う大きな喜びの日です。
aosta
2008/03/25 21:33
◇unaさん
昨日は本当にありがとう!
お目にかかれるなんて夢のようでした。

>カルメルでのアスピラント時代を思い出しました

unaさんもカルメルだったんですね?!
私のお友達ってカルメルの方が多いの。不思議です。
ブックマークに登録いただいたとのこと、ありがとうございます。
usagiさんとの出会い、unaさんからいただいた最高のプレゼントかもしれません!!ありがとうを100回!!!
aosta
2008/03/25 21:41
 aostaさん、リーメンシュナイダーのグリフォードの詩を拝見しました。全身全霊で身震いする貧しさですね…。
 マタイの5章1節、引用してくださったところが、これまでよくわからなかったのです。高森草庵と、「昇天のマリア」で、これから少しずつ私なりに近づいていけるかもしれない…。きっかけをいただきました。ありがとうございます。
alex
2008/03/26 12:49
清らかな時を過ごされたのですね。
aostaさんの文面から、幸福感が出てるようです。

幸福ってどういうことだろう・・・たまに考えるのですが。
やはり慎ましやかな中にしかないのでしょうね。
つまり欲という感情に縛られている限り、幸福を感じることができないと思うのです。
また、悲しい思いをしない限り、幸せを理解できないし、空腹を知らない限り、満ち足りることを知ることがないのだと思います。

ちょっと、ひにくな感じがします。

pale moon
2008/03/26 18:32
>ありがとうを100回!!!
じゃあ聖書にならってワタシからは
aostaさんの7倍
29日楽しみにしてます
una
2008/03/27 22:56
◇alexさん
 おはようございます。

この一週間不思議としか思えないような出会いを幾つか経験しました。どの出会いも一生を通じて大切にしていきたいと思える素晴らしい出会い。
神様は私たちに本当に必要なことをみんなご存知なのだと改めて思いました。両手に一杯持ちきれない物を後生大事に抱えていたのでは、本当に必要な物に出会っても、受け取ることは出来ませんね。
空っぽにすること、空っぽになることで初めて出会えることがあるのだと気がつきました。もちろん、なかなか空っぽには出来ないのですが、気づかないで握り締めていた手をふと緩めた瞬間、心底、空っぽだ、と感じるときがあります。そんな時ふわりと神様が入ってきたような気がしました。
aosta
2008/03/31 08:58
◇pale moon さん

喜びを知るためには悲しみを、満ち足りるためには空腹を経験しなければならない・・・
片方だけの経験では、どちらも「ない」ということなのかも。
人生って、それでバランスが取れるんでしょうね。
大きく振れた針がまた元に戻ることの繰り返しのようなものかもしれません。もっと、もっと、が当たり前になっている私たちの日常の中で、こうした針の振幅をもっと大切に感じられるようになりたいと思いました。
少女のころ読んだ本、題名は忘れてしまいましたが、その中で主人公は「喜びの遊び」を通して、周りの人々を少しづつ幸せにしていきます。
どんなにマイナスな出来事も、必ずプラスの側面を隠し持っている、その喜びを発見するために必要な物はただひとつ。与えられたものに対する疑いのない愛情だったように記憶しています。
aosta
2008/03/31 09:11
◇unaさん

29日はありがとうございました。その後松本暮らしはいかがですか?
せっかくなのに、お天気があまりよくないのが残念ですね。

この次はカキフライに挑戦いたしましょう!!
aosta
2008/03/31 09:19
こんばんは。何度かメッセージを送ろうとしては玉砕し、コメントにしました。
遅ればせながら松本ではありがとうございました。
またぜひ、お話できる機会を設けたいと思います。
ちなみに私もカルメリット志願でした(お年の都合ですでに過去形)。
acqua
2008/04/06 01:21
aostaさん、こんばんは。
初めて訪問いたしました。
なんと詩的な、美しい空気の漂うweblog!
「ほ〜っ」となりながら拝読いたしました^^
「喜びの遊び」の少女の話、『少女パレアナ』E・ポーターかなぁ?と思いましたが、違いましたらごめんなさい・・・
孤児になったパレアナが、牧師だった父の教えを思い出し「喜びの遊び」をするようになる・・・という話です。昔、名作劇場でもアニメになったような気が。。
イースターの次はペンテコステですね☆
Ciel
URL
2008/04/09 22:35
◇acquaさん

コメントありがとうございます♪
その節はありがとうございました。
acquaさんの深い理解と愛情に、初対面であったにも関わらず心を許して甘えてしまいました。すごくたくさんの元気と慰めをいただきましたこと感謝」で一杯です。acquaさん初め、Usagiさん、unaさんとの出会いは大きなお恵であり、始まりであると感じています。
これからもどうぞよろしくお願いいたします。

aosta
2008/04/10 13:52
◇Cielさん

おいでくださいましたこと、とても嬉しいです。
ここのところご無沙汰しておりましてごめんなさい。

>「喜びの遊び」の少女の話、『少女パレアナ』E・ポーターかなぁ?と思いましたが、

そうでした!確かに「少女パレアナ」でした。
どうしてもタイトルが思い出せずに板のですが、これですっきりいたしました(笑)。エレナ・ポーターでしたっけ?

>イースターの次はペンテコステですね☆

春はレントから始まってイースターを過ぎ、ちょっと油断しているとペンテコステ。ふぅ〜っ。忙しいですね(笑)。
先ほどブログを拝見しましたところ、少しお疲れのご様子、お体大切になさってくださいね。精神(こころ)も身体も健やかにお過ごしくださいますように。

aosta
2008/04/10 14:01
六本木ヒルズの最上階で東京を一望すると、そこに広がっている世界は荒涼とした無機質な砂漠としか見えません。人々は確かに生きて活動はしていますが、皆が心豊かかどうかは分らず懐疑的にならざるを得ないのが現実です。ポケットにナイフを忍ばせ、空っぽ頭の人間がマスプロされつつある社会を、ただおぞましいとだけ見逃していて良いのかどうか。せめて自分の子供、孫ぐらいは人としての尊厳を持たせたいものです。
「ああ智慧は かかる静かな冬の日に それはふと思いがけない時にくる 人影の絶えた境に 山林に たとへばかかる精舎の庭に 前触れもなくそれが汝の前に来て かかる時 ささやく言葉に信をおけ 「静かな眼 平和な心 その外に何の宝が世にあらう」・・・(三好達治「冬の日」)」全体で五十行あまりのこの長い詩を静かに口ずさむとき、深い思索の想いを新たにします。

sonnet
2008/04/11 01:01
(字数制限のため続きです)
草庵のような場所は、まさにミクロなるがゆえに、上記の詩の体現するように、祈りと思索(智慧)の場として、曾って押田神父が創設された初心そのままに、心に深い悩みを抱えた人たちの恢復の場所として活かされ、今後も長く心休まるオアシスのように、滾滾と湧き出る慈愛の泉であって欲しいものですね。
イースター本当に良い体験でしたね。闇から払暁の光へと移る時間の神秘と厳粛、ふと昔々、学生のころ、南禅寺の方丈に泊めて頂いた一室で、早春の夜明けを迎えた時の、清清しい朝のことを思い出しました。
sonnet
2008/04/11 01:58
◇sonnetさん
 ごめんなさい、お返事遅くなりました。

>そこに広がっている世界は荒涼とした無機質な砂漠としか見えません。

先日上京した際、朝の通勤時間に重なった西新宿のスクランブル交差点は、立錐の余地もない人混みで、さながらうごめく「黒い絨毯」のようでした。
単なる傍観者としてその人混みを眺めていた私がつぶやくように思い出していたのは中也の詩の一節でした。
「あゝ十二時のサイレンだ、サイレンだサイレンだ
ぞろぞろぞろぞろ出てくるわ、出てくるわ出てくるわ
月給取の午休み、ぷらりぷらりと手を振つて
あとからあとから出てくるわ、出てくるわ出てくるわ
大きなビルの真ッ黒い、小ッちやな小ッちやな出入口
空はひろびろ薄曇り、薄曇り、埃りも少々立つてゐる
ひよんな眼付で見上げても、眼を落としても・・・
なんのおのれが桜かな、桜かな桜かな

三好達治の詩とは対極にある光景ですね。
aosta
2008/04/17 17:22
◇sonnetさん、続きです。
 
真面目に働いていらっしゃる方を思えばこの詩は不謹慎な連想かもしれませんが、中也の生きた時代から時は移り変わり、朝の通勤と午休みの違いはあれ、「個」としての存在が限りなく薄らいでいく都会の風景です。
おりしも、この詩と同じく桜の花が満開でした。

・・・ごめんなさい。
お夕飯の時間です。続きの続きはまた後で。
失礼いたします。
aosta
2008/04/17 17:23
◇sonnetさん
 お待たせいたしました。ただいま戻りました(笑)。

>闇から払暁の光へと移る時間の神秘と厳粛

本当に世界が息を潜めているような、密度の濃い時間でした。
草庵での祈りの時間は回復と癒しの時間でもありました。
復活という大きな喜びは、私たちに生きることのもう一つの意味を教えてくださいます。復活の約束があればこそ、ただ一回だけの生を生き抜くことが出来るのだと思います。

南禅寺の方丈、西洋と東洋の違いはあれ、真実の祈りのあるところに”主の貧しさ”があるのではないでしょうか。
ここでは敢えて「清貧」という言い方はしませんでした。
私にとって」「清貧」とは、アッシジのフランチェスコのそれであって、流行り言葉のように巷で言い交わされる物とは違うからです。
しかしながら、ここ高森にはフランチェスコの清貧が生きています。

aosta
2008/04/17 20:59

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