『受胎告知』 / フラ・アンジェリコ



もう20年近く前の記憶である。
フィレンツェのサン・マルコ修道院で出遭ったフラ・アンジェリコの『受胎告知』。
数ある「受胎告知」の中でも、ダ・ヴィンチの作品と並んで最も知られた作品の一つかもしれない。
その絵は、薄明かりの中、階段を上がった正面の壁に描かれていたように思う。
左手から柔らかな陽が差し込む踊り場に立って、見上げる形で対峙したその絵は、沈黙と緊張、静謐の中にあった激しいドラマを、あたかも時が止まったかのように描きだしていた。

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            フラ・アンジェリコ「受胎告知」(1441-43頃)
                      フィレンツェ サン・マルコ修道院

おそらくは深い祈りのときにあったマリアのもとに、ひとりの天使が現れ、こう告げる。
「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名づけなさい。」
驚き畏れながらマリアは「まだ夫もありませんのに」と答える。
すると天使は、「恐れることはありません。あなたは聖霊によって身ごもるのである。生まれる子は聖なる者。神の子と呼ばれる」と告げたのである。
この絵は、その信じがたい驚愕の知らせを受けた後、落ち着きを取り戻したマリアが「私は主のはしためです。お言葉通り、この身に成りますように」と受け入れた、まさにその瞬間を描いた作品である。

この驚くべき御業を告げ知らすべく使わされたのは、大天使ガブリエルであった。
ガブリエルは、神の子の母となるこの少女の前に、深く膝をかがめ、両腕を胸に、厳粛に、しかし限りない優しさと恭しさで神の言葉を告げている。
対するマリアはといえば驚きと畏れの中にあってただひとこと『お言葉のようになりますように。』と神の言葉を受け入れる。その瞬時の決意と神への恭順。
この上もなく清らかな清水にも似た内なる光りが彼女の全身を浸しているかのようだ。

言葉を伝える者。
言葉を受け取る者。
二人の眼差しはひたと合わされている。
僅かに上体を天使のほうに傾け胸に手を組み、全身を耳にして、その「言葉」、すなわち、いまだかつて誰も経験したことのない運命を受け止めようとしているマリアは、このとき僅か14歳の少女であった。

マリアが人間でありながら唯一「原罪」から逃れた存在であったがゆえに神の子の母として選ばれとすると考えかた「無原罪の御宿り」は1854年12月8日教皇ピウス9世 によって公認されたカトリックの教義である。
これに対し、プロテスタント諸教派及び東方正教会はこれを公式には認めていない。
 神学的に、マリアが無原罪であったか否かは私には到底知るところではないが、むしろその至潔な信仰においてのみ彼女が選ばれたこと、他の全ての人間と同じく原罪をともにしている一人の少女に神がその独子を託されたとするプロテスタント的理解における、この驚くべきパラドックスにこそ、神の愛の意味を知らされる想いがする。

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           ムリリョ「無原罪の御宿り」(1665~70)マドリッド プラド美術館

この記事へのコメント

Stanesby
2006年12月17日 08:26
肩の辺りに、まだ成長しきれない14歳の少女の身体を見るものの、
マリアのお顔は随分と大人に見えますね。

一方の大天使ガブリエルは、横からではありますが、
肩から腕にかけて、立派な成人を示す逞しさがあります。

不思議な絵ですね。
2006年12月17日 10:24
◇Stanesbyさま

おはようございます。
実は今回、ダ・ヴィンチとフラ・アンジェリコ、どちらの「受胎告知」にしようかとずいぶん迷いました(笑)。
結果として、このフラ・アンジェりコを選んだのは、私が実際に見て大きなインパクトを感じた絵であったから。
フラ・アンジェリコとレオナルドは丁度入れ替わるようにしてこのルネッサンス期のイタリアで活躍しました。
 師であったヴェロッキオを感嘆せしめたレオナルドの天才は、解剖学的、また遠近法の正確さにおいて、それ以降の絵画のあり方を大きく変えた存在であったかと思います。
彼に先んずること50年余り、修道僧フラ・アンジェリコは、15世紀ルネサンス絵画の黎明にあって、西洋絵画をそれまでのビザンチン様式の影響下から開放したジオットーの後継者の一人であったかもしれません。
稚拙な点は免れ得ないところではあります。けれども、その作品の清浄さ敬虔さはそうしたテクニックの不足を補ってあまりあるものがあると思います。
2006年12月17日 10:36
マリアが僅か14歳であったと言うことを前提にして選ぶならば、一番にムリリョの「無原罪の御宿り」を挙げたいと思います。
このムリリョの描くマリアはまさに、清純無垢な少女そのものです。
初々しいその眼差しは、遥かな天の高みにと向けられ、いたいけないながらも、決然とした決意を表明するかのようです。
そしてこの決意こそが
「クリスマスの幸福をもたらしてくれるのです」とは、ある方の言葉ですが、まさしく、マリアの決意なくしてクリスマスの喜びはありえなかったのだということに改めて感動してしまいます。

Stanesbyさま、
ムリリョの作品、遅ればせながらアップしました。
こちらのマリアはいかがでしょう?14歳に見えますかしら?
2006年12月18日 07:34
追加アップの「無原罪の御宿り」
五月に、上野で(「PRAD美術展」)見ました。
大きさもかなりあり、人ごみの頭越しに。
ブルーの衣をまとったすがたは、生き生きとしていました。
ちょうど、「ダ・ヴィンチ・コード」を読んだ直後で、なにかと興味深かったです。
2006年12月20日 21:17
◇Suzukaさま

「無原罪の御宿り」本物をご覧になられたのですか?
ブルーは聖母マリアの色ですね。
聖母マリアを描くときに、青は純潔と信仰を象徴する色。

マリアとは関係ないのですが「青」と言えばジオットーを、そしてフェルメールを思い出します。
日本では魁偉ブルーかな?
Stanesby
2006年12月20日 23:44
ち~と、若すぎないかえ?
2006年12月21日 00:37
青といえば・・・

セザンヌの" patch of blue" です!
(学生のとき、苦労しましたから)
2006年12月22日 06:18
◇Stanesbyさま

難しいですね・・・
 ムリリョのマリアは、まさに14歳の少女ですよ(笑)
2006年12月22日 06:19
◇Suzukaさま

残念ながら、セザンヌについては良く知りません。
2006年12月23日 22:30
こんばんは。aostaさん。先日は、私のブログへお越し頂いてありがとうございます。こちらに伺ったのは、今日初めてです。
とても、しっとりとした文章が、素敵で読み耽っておりました。それに、キャスリーン・フェリアーを思い出して、今聴きながら書いてます。
そして、ふと読んでいるうちに、誰かの文章を思い出しました。そう、清少納言です。何となく「枕草子」を読んでいるような錯覚が。

さて、こちらにコメントしたのは、私もムリリョの「無原罪の御宿り」、上野で見てきたのです。美しい絵でした。青衣が印象深く記憶の中に残っています。プラド美術館展は、どうしても見たくて、日帰りで見に行ってきました。急ぎ足でしたが、とても良かったです。
では、また、お邪魔します。
2006年12月24日 23:05
◇沙羅さま

コメント、ありがとうございます。
キャスリーン・フェリアー、本当にすばらしいコントラルトですね。
深く良く響く低音。そしてビロードのような艶。
あらあら、なんだか私まで彼女のCDが聞きたくなってまいりました(笑)

ムリリョの「無原罪の御宿り」、やっぱり印象的なのは「青」なのですね。
そしてこの絵の下の方に描かれている百合と薔薇。百合は青という色とともに聖母マリアの純潔を表しているといわれていますが、フラ・アンジェリコの「受胎告知」にはどこにもその花が見当たらないことに、たった今、気がつきました。
けれども僅かに時代の下がったダ・ヴィンチの作品では、大天使ガブリエルの手にしっかりと百合の花が握られていますね。
フラ・アンジェリコとヴィンチが生きた時代との僅か50年の誤差の中で、百合が、聖母の純潔を象徴する花となったきっかけは何だったのでしょう・・・
 ちょっと興味がわいてきました(笑)!!
2006年12月25日 14:14
再びお邪魔します。
ダ・ヴィンチの「受胎告知」来年日本に来るそうです。
機会を作って、ぜひ見に行こうと考えています。
私も、「百合」のお話で、さらに興味が湧いてきました。
2006年12月26日 07:22
◇沙羅さま

おはようございます。
そして、クリスマスおめでとうございます。
ダ・ヴィンチの「受胎告知」、日本に来るというお話、私も聞いています(笑)
長男のところに行ったついでにいかれたらな、と思ってはいるのですが。
毎回、行って帰るだけのトンボ帰りです(哀)。

ついで、ではなく「そのために」行く時間を作らねば・・・
百合に限らず、薔薇の花にも沢山の暗喩、メッセージがこめられています。
絵画の図象学、調べてみると、はまります(笑)。

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