”O magnum mysterium” / ボッティチェルリ「柘榴(ざくろ)の聖母 」

遥かな時間のかなた、西洋音楽の黎明から響いてきた、暖かな光りに満ちた音楽にすっかり心を奪われてしまいました。

アーリー・ミュージックに対する漠然とした興味と共感は、かなり以前から感じていたものでしたが、ブログでのやり取りを通じてNoraさんからいつも素晴らしい示唆を頂いているうちに、この時代の音楽をもっと聴きたいもっと知りたいという気持ちが強くなってきました。


今回、たまたまお気に入りのCDショップで破格の割引で購入したこの”O magnum mysterium”もまた、こうした私の内面の流れの小さな変化の結果だったのかもしれません。
ブリリアント4枚組みのこのCDには、以前Noraさんが熱く書いていらした、デュファイ、オケゲムの曲が収録されています。

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Noraさんのご紹介にあったこの3曲は、もともと名前だけは知られていてもCD化されたものが少ないマイナーな曲ばかり。
デュファイ の「エッチェ・アンチルラ・ドミニ」、オケゲム、ミサ「プロラツィオーヌム」「クユスヴィス・トニ」の3曲が全てこのアルバムに収録されているという不思議な偶然です。
それと知って買ったわけではありませんでした。
たまたま50%OFFというこれまた信じがたい値段に惹かれ、演奏者がスコラ・カントゥム・シュトゥットガルトということに信を置いての衝動買いだったのです。

最初に聴いたのはデュファイ。
以前、ブログにもアップした、オケゲムと同じ「エッチェ・アンチルラ・ドミニ」。
「主よ憐れみたまえ」と繰り返すこの曲のキリエからは、神への確かな信仰と希望が穏やかな雨のように降り注いできます。
金色に光る、霧のように細かい雨です。
両の手のひらでをそっと開いて、いつまでも受け止めていたくなるような・・・
気が付かないうちに、いつの間にかほのぼのと静かに明けてゆく東の空のような・・・

後世のホモフォニーのような主旋律を持たず、複数の声部がそれぞれ独立しながら、神秘的なまでのハーモニーを作り上げていくポリフォニー。
まだ明けきらずにいる東の中空へと立ち昇り、やがてあけぼの薔薇色の輝きと共にこのうえない美しさでたゆたっているかのようなこの曲は、ポリフォニーの極限の魅力に輝いているように思います。
そしてどこか懐かしさを覚えるような気がして仕方ないのは錯覚かしら。

キリスト教という共通の土台にヨーロッパの国々と社会がしっかりと根を張っていた15世紀という時代。
ルターによって改革が叫ばれ、内部において新旧の神学が対立を初める以前の音楽だからでしょうか、
穏やかな親和性と、おおらかな明るさに満ちた優美な音楽です。
けれども同時に、しなやかでありながら、強靭に張り詰めた一本の矢のようなベクトルを感じ取ります。
これは、この時代のものというより、デュファイという音楽家の個性なのでしょうか。




この曲を聴きながら思い描いていた絵があります。


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「柘榴(ざくろ)の聖母 」 1487年頃 サンドロ・ボッティチェルリ 



この作品の題名にもある柘榴は、キリストの受難の象徴です。
愛するわが子をかき抱きながらも、母マリアの表情は、静けさの中で深い憂いに沈んでいます。

”われ主のはしためなり Ecce anchilla Domini エッチェ・アンチルラ・ドミニ”

この言葉によって、キリストの母となる運命を受け入れたマリアは、このとき、子イエスの受難と同時に、自らの受難をも受け入れたのでした。
自らの胎を痛めた子でありながら、真実「我が子」とは言うべくもない息子。
この作品の放心したように見えるマリアの表情には、全てを神に委ねてなお深い悲しみのうちに在る母親としてのマリアそのものです。
委ねることによって与えられたものは、安寧というより諦念だったのかもしれません。
想いを手放すことが至高の愛の表現だった、などと言えばお叱りをうけるでしょうか?
いいえ、神への全的信頼があったればこそ、マリアは全てを一身に引き受け、
そして身もだえする悲しみのうちに手放した・・・

信頼とは、本来、覚悟です。
覚悟して相手に委ねる、という決意であり、時にその決意に殉じる苛烈なもの。
マリアは自分の信仰のうちに全身全霊を投じたのです。
このマリアの信仰を、全的信頼、覚悟と言わずしてなんでしょう。
ボッテチェルリのマリアの顔に浮かんでいるのは、、全てを投じる決心と、およそ人間の女が経験したことのない深い悲しみとの狭間にあるマリアの、「積極的自己放棄」とも言うべき表情のようにも見えてきます。

このマリアに私が感じるものは、その痛み、その悲しみさえも「捧げもの」とした、彼女の覚悟。


聖母子の頭上からは慈雨のような金色の光りが降り注いでいます。
それは祝福であり、慰めです。
すべてのものと「苦しみを共にする」存在に対し、「主よ我等を憐れみたまえ」と頭を垂れるとき
私はまた、一つの言葉を思い出しています。



「神の前に、神と共に、神なしに生きる」

第2次大戦中獄死した反ナチの活動家であり、
時代を代表する神学者でもあったボンヘッファーの言葉です。



この記事へのコメント

Stanesby
2007年08月12日 07:39
「神の前に、神と共に、神なしに生きる」
私も大好きな言葉です。
神に頼って生きる姿を至るところで目の当たりにしますが、
それは違うと思っています。少なくとも私は、
「神に見守られ、神と共に、神なしに歩む」
でありたいですね。

本題からそれてすみません。
2007年08月12日 12:16
 おはようございます。
 デュファイには、ルネッサンスの幕開けを高らかに告げる4曲の至高のミサがあります。
(4曲、というのは、わたしが勝手に選んだだけで、ほんとはもっとあります・笑)
 aostaさんが記事に書かれた「エッチェ・アンチルラ・ドミニ」は、その中でも最も優美と言ってよい音楽です。
 わたしは、この曲についてだけは、なかなか記事を書くことができずにいたのですが、いくつかの偶然が重なった結果、aostaさんが、このように感動的な文章を書いてくださりました。心から感激しています。
 「金色に光る、霧のように細かい雨。穏やかな雨」
 これ以上、この曲にふさわしい言葉は、みつかりません。
2007年08月12日 12:17
 一応トラックバックさせていただきましたが、やり方が何だかわかりません。うまくいったかどうか。

 たくさんあるので、どれにしようか迷いましたが、とりあえず、

①デュファイら、初期フランドル楽派の音楽のイメージを書いた記事、
②デュファイ作曲の他のミサ曲の記事、(「ロム・アルメ」にしました)
③デュファイの音楽史上の位置づけがわかる記事、

 を、選びました。ご参照してくだされば、ありがたいです。
2007年08月12日 14:39
aostaさんの説明で、今CDを聴いているような気分になりました。私の好みの音が、耳元で鳴り響いている感覚です。この曲もいずれ実際にきいてみたいです。
2007年08月12日 22:12
石榴の聖母。とても好きな作品です。
聖母の静かな湖面のような澄んだ瞳(でもその底には大きな哀しみが潜んでいる)、幼児キリストの超然とした表情。
何故この作品にこんなにも惹かれるのだろうと自分でも謎でしたが、aostaさんのお言葉でそれが分かったような気がします。
・・・全的な信頼があったればこそ、マリアは全てを一身に引き受け、そして身もだえする悲しみのうちに手放した・・・
そして、聖母子に降り注ぐ金の雨ような光。本当に「慈雨」という言葉がぴったりですね。
aostaさんの文章、詩を読んでいるときと同じように、魂にダイレクトに響いてくるのを感じます。
2007年08月13日 05:40
◇Stanesbyさん おはようございます。

「神の前に、神と共に、神なしに生きる」
これは、すごい言葉です。
こんな文章の最後に、あんなふうにに引用されるべきものではないのかもしれません。
私にとっては、この一言によって私の信仰そのものが変えられたと言っていいと思います。
私達はよく、悲惨な世界情勢を見聞きしたり、過酷な運命に見舞われたとき
「神はいるのか、神は我々を見捨てたのか、神は何故救いの手を差し伸べないのか。」と問います。
神の沈黙は時に残酷であり、謎です。
神の「最善」とは一体なんなんでしょう。それは何処にあるのでしょう。
2007年08月13日 05:45
◇Stanesbyさん 

それまで見捨てられていた、小さいもの、弱いものに初めて目をむけ彼らと「苦しみを共にする」と言う思想をキリスト教が「発見した」のだ、と言われますが、「苦しみを共にしている」のは人間だけではありません。
神もまた、私達と苦しみを共にしてくださっている。
しかしながら、神は「人間のためのもの」でないことも事実です。
『人間のための神』、いわゆる御利益信心(ごりやくしんじん)は
「神なしに生きる」と言う言葉に見られる覚悟や志向性とは、かなり違うもののような気がします。

宗教は、難しいです。
避けなければならないのは一方的な押し付け。
みなそれぞれに、神と信ずるものを大切にしているのですから。
お互いに必用なことは、尊敬しあうこと。
大事なことは、神様がいて下さると信じること。
そして、その存在が私達を「見ている」ということだと思います。

私もずいぶん本題からずれてしまいました。
朝からこのコメントでは、みんな逃げて行ってしまうかもしれません。(笑)
2007年08月13日 05:57
◇Noraさん

おはようございます。
逃げずにそこにいてくださいますか?

>わたしは、この曲についてだけは、なかなか記事を書くことができずにいたのですが

この言葉にどきりといたしました。
私の感想は安易に過ぎたかもしれません。
長いことこの曲への想いを暖めていらしたNoraさんの深さとは、およそ遠い感じ方であったのではありませんか?

私の悪い癖です。
自分の想いをじっと暖め、静かに成熟していくのを待つということが苦手なのです。
感じたとき、すぐに反応してしまうと言うこの性格も悪いことばかりではないと自らを慰めるのですが、言葉と思いは軽くなってしまいます。

Noraさんは、どのようにこのデュファイをお聞きになったのでしょうか。
Noraさんの美しく暖かな言葉で語られるこの曲についての想いをお聞かせいただけましたら幸いです。

2007年08月13日 06:02
◇Noraさん

素晴らしいTBをありがとうございます!!
すぐに掲載させていただきました。
①、②の記事。
日付を拝見して、この頃はまだNoraさんのブログにお邪魔していなかったんだなぁ~と、なんだか深い感慨を覚えました。

Noraさんとの出会いがなかったら、この曲との出会いもなかったはずです。
考えてみれば不思議ですね。
2007年08月13日 09:09
◇沙羅さん、

>私の好みの音が、耳元で鳴り響いている感覚です。

ありがとうございます。
言葉で、音楽を伝えることが出来るのか本当はいつも不安です。
もちろん、伝えたいのは自分の想いなのですが、こと音楽に関しての思いを書こうとするたび、私は音楽について何も知らないという事実を突きつけられてしまいます。
音楽についての知識も経験もない私が言葉で音楽を語る・・・
いつもいつも、言葉が足りません。いつも言葉がみつかりません。
大それたことかもしれない、どなたからか失笑を買っているのではないか、という不安を覚えながらも、書かずにはいられません。
もし間違った聴き方感じ方をしていたら、と思うと本当に恥ずかしいのですが、沙羅さん初め皆さんの暖かいコメントに励まされ、また何か書こうかと(笑)・・・

なかなか懲りることを知らないaostaです。
2007年08月13日 09:59
 おはようございます。

> 間違った聴き方感じ方をしていたら、と思うと本当に恥ずかしいのですが、

 aostaさん、よくそのようにおしゃいますが、音楽に、間違った聴き方、などというものは、絶ーーーー対に!存在しませんよ。その方がその時そう感じたことは、まぎれもない真実だからです。
 クラシック音楽では、みんなよく、わかる、わからない、という言葉を使いますが、音楽は理解するものではなく、感じるものだと思います。あたりまえですけど。
 だから、aostaさん、これからも、堂々と、感じるままに、どんどん書いてくださいね。(言われなくても、書いてますね・笑)
 わたしは、この曲については、思いをあたためていたのではなく、書くのを放棄していたのです。そうしたら、aostaさんが、とびっきり新鮮な言葉で感想を綴ってくださった。
 わたしがご紹介した曲を、aostaさんがお聴きになってこのような文章を書いてくださり、それを読んだ方が、また興味を持たれてコメントをくださる、
 朝から何だか、涙がでるほどうれしいNoraです。
2007年08月13日 23:58
◇Fu Shuseiさん、お返事が遅くなりました。

>石榴の聖母。とても好きな作品です

ボッティチェリ、私にとっても気になる画家のひとりです。
特に、この絵。
中央で幼子キリストを抱く聖母マリアの、左の傾けた顔の表情。左右の目線の向かう方向がこころなしずれているように思います。
顔を左右半分ずつ見てみると、向かって右半分視線が左に比べて幾分、憂いが深いように見えます。
左右の表情の微妙な落差がこのマリアの顔をより深い物としているのではないか、と思います。

そしてマリアを囲む大勢の天使達。
彼らは皆、てんでわれわれな方向をを見つめ、不思議なことにマリアに目を向けている天使は一人もいないのです。
マリアは孤独です。
彼女の心は、もしかしたら別のところにあるのではないか、彼女に必用なものは、天使たちの涙でもなく賛美ですらないのかもしれません。
彼女は傷んでいます。
彼女の視線の先にいるのは天使ではなく、神だけなのかもしれません。
2007年08月14日 00:05
◇Fu Shuseiさん、しつこく続いてごめんなさい。

>「神の前に、神と共に、神なしに生きる」

この言葉に最も相応しい人間の一人がマリアであったのではないかと私は思うのです。
折に触れて、神からの救いの御手が差し伸べられたのは、全て幼いキリストに対してでした。
彼女は神の前にいつもただ一人で立っています。
祝福の雨に包まれながらも、彼女の心は傷んでいます。

ボッティチェリの描くマリアに私が感じるもの、それは痛みさえも「捧げもの」とした、彼女の覚悟。

繊細な表情、優美な筆致で描かれたボッティチェリの女性達に共通しているのは毅然とした誇りの高さなのかもしれません。
2007年08月14日 07:15
◇Noraさん、おはようございます。

心温まる、嬉しいコメントをありがとうございました。
朝から何だか、涙がでるほどうれしいaostaです。

>わたしがご紹介した曲を、aostaさんがお聴きになってこのような文章を書いてくださり、それを読んだ方が、また興味を持たれてコメントをくださる

考えてみればすごく素敵なことですね。
始まりはnoraさんなんです。
Noraさんが点した小さなともしびは暖かく光っていました。

「ナルニア国物語」をお読みでしょうか。
衣装ダンスを抜けて真っ暗で凍える寒さの雪の原でルーシーが見つけた街灯を思いだしました。
そして小脇になにやら「茶色い包み」を抱え、優しい瞳をしたフォーンのすがたも。
2007年08月15日 20:51
こんばんは。すこし遅めのコメント、お許しください。
死ぬ前に一度でいいからボッティチェルリを見たい、と5,6年ほど前から思っていました(多少大袈裟なのですが)。今年その願いがかなうことになりそうなのです。フィレンツェへのチケットを取ったのです。柘榴の聖母はウフィツィにありますので、本当に見ることが出来るかもしれません。この絵の聖母の放心したような顔つき、なんでだろう、と思っていたのですが、記事を読ませて頂いて、その答えを見つけた、と思いました。
2007年08月16日 23:08
◇Shushiさん、こんばんは。

こちらまでお運びいただきましてありがとうございます。
「春の戴冠」、遅々として読み進まず、Shushiさんのブログにコメントできないような気持ちでおりましたのに、思いがけずもコメントを頂きまして、ありがとうございました。

>死ぬ前に一度でいいからボッティチェルリを見たい

死ぬ前に、とおっしゃるには、まだ早いのではありませんか?(笑)
フィレンツェへのご旅行、素晴らしいですね!!
ずいぶん昔になりますが、私も束の間のイタリア旅行を楽しんだことがあります。連日美術館と修道院を巡る旅でした。



2007年08月16日 23:11
Shushiさん,長くてごめんなさい。

フィレンツェで特に印象的だったのは、サン・マルコ修道院のフラ・アンジェリコとウフィツィの「ボッティチェリの部屋」でした。
フラ・アンジェリコの描くマリアの静謐、ボッティチェルリの「春」の優美さ、どちらも時間の流れを超えて輝き続け、語り続けてくる神秘的なまでの輝きに満ちていました。
聖母について私が書きましたことは、まったく個人的な私見でしかありませんので、どうぞShushiさんの目と感性でご覧になられた作品についての感想をお聞かせ下さい。楽しみに待っております。
2007年08月17日 21:10
こんばんは。たびたびのコメント、お許しください。
ウフィツィの「ボッティチェッリの部屋」はターゲットに入っていましたが、サン・マルコ修道院までは予定に入っていませんでしたが、ここにフラ・アンジェリカがあったのですね。これはどうにか時間をやりくりして観に行かないと行けないですね。二日しか滞在しないので、どうやって時間をやりくりしていこうか、とちょっと困っています。
Stanesby
2007年08月18日 03:59
> 音楽に、間違った聴き方、などというものは、
> 絶ーーーー対に!存在しませんよ。

Noraさんのコメントへの反応です。
私も同感だとお伝えした上で、私は敢えて、Noraさんのコメントの"聴き方"の部分を"演奏の仕方"とまで言い切りたいと思います。紋切型の性格でして・・・・(笑)

クラシック音楽を難解なものにさせている原因の一つがそこにあると思います。僕はピアノも習ったことがありませんし、偉そうなことはいえないのですが、音楽を演奏する人間の一人です。クラシック曲の演奏の場合は「こうあるべき」であるはずのものが、いつのまにか「こうでなければならない」に摩り替わっています。音楽大学のえらい先生たちでも料簡の狭い方がいらして、「その演奏の仕方は僕が教えたものとは違っている」とか「それは僕じゃなくて××教授の流れだ」とかおっしゃるようです。
Stanesby
2007年08月18日 03:59
そんなことはどうでもよくて、要は心地よく響く音楽かどうかだと思います。それも独りよがりでなく、かつ万人に受け入れられるものでもないはずです。要の要は「相手を認める」ってことではないでしょうか。「こんな流儀はない」と感じるか「こんな演奏もあるんだ」と素直に思えるか、それによって、音楽の幅、ひいては人間の幅、生き方も広がると思うのです。
Stanesby
2007年08月18日 04:02
aostaさん(oastaさん?)の「神なしに生きる」についての思い、
読ませて頂きました。
とてもバランスの取れた考えだなぁと感じました。
ありがとうございます。
2007年08月18日 12:13
大変丁寧なお返事をいただきまして、有難うございました。

>ボッティチェリの描くマリアに私が感じるもの、それは痛みさえも「捧げもの」とした、彼女の覚悟。

とても、とても、深いお言葉です。
上手く言葉に出来ないのですけど、「・・・!」という感じです。
ハッとしました。
ますますボッティチェリがいとおしくなってしまいました。
ボッティチェルリに「恋」してきましたけど、「愛」に移行しつつあるのを感じる今日この頃です。
2007年08月18日 21:51
◇Shushiさん、こんばんは。

何度お見えになっても嬉しいです。
「いつも、何度でも」大歓迎です(笑)

二日間の日程で、サン・マルコ修道院も組み込むのは、ちょっと厳しいかもしれませんね。
ここにはご存知のとおりフラ・アンジェリコの多くの作品、またギルランダイオの作品と並んで、修道院長だったサヴォナローラの遺品を展示した「サヴォナローラの部屋」もあり、時間はいくらあっても足りません。
几帳面な細かい字でびっしりと書き込みがされているサヴォナローラの聖書など見た時は眩暈がするような感じでした。
「春の戴冠」の中の時間が凝縮されてそこにありました。

ヨーロッパのどの美術館にいっても感じることは、時間が全然足りないということです。
もし仮に一週間の時間が与えられたとしても、その一週間の終わりには、もっと時間が欲しかった、と嘆くに違いありません。(涙)
2007年08月18日 22:01
◇Stanesbyさん、コメントありがとうございます。

>要は心地よく響く音楽かどうかだと思います。

簡潔にして的を得たお言葉、ありがとうございます。
そして嬉しいです。

音楽が「かくあるべきもの」として演奏され、同時に「こう聴かねばならない」と強要されるものであったとしたら、私は、音楽について感じたことを描くことはおろか、音楽そのものを聴くことさえ出来ないかも知れません。
ある意味、私の聴き方は、完全に独断的な感情移入ですから(笑)
2007年08月18日 22:18
◇Stanesbyさん

oastaことaostaでございます(笑)
すみません!
時々知らないうちにoastaモードになってます。

さて、「神なしに生きる」とは、神様なんかいない、と言う観点の言葉ではもちろんありませんね。

神様はいらっしゃる。
神様は常ににここに、私達のすぐそばに共にいて下さるのだけれど、現実に関与なさることはない。

現実に生きるうえでの「神の不在」。
この事をどう考え、どう信仰していくべきかを、絶えず自らに問い続ける精神のあり方そのものが「神なしに生きること」と繋がっていくような気がしています。

2007年08月18日 22:42
◇Fu Shuseiさん、こんばんは。

ボッティチェリ描くところの女性の表情は神秘的なまでに謎めいています。
絵も、私にとっては音楽と同じように完全な感情移入。
もしかしたら、「私が見たいもの」を見ているだけなのかも知れません。
では「私が見たいもの」とはなんでしょう。
心静かに絵と向かい合っているうちに、絵が語ってくれる物語。
心の中で耳を澄ませて、聞こえてくるのを待っています。

Fu Shuseiさんのボッティチェリ、とても素晴らしい文章で一気に読ませていただきました。
どこかでそのときの記憶が残っていって、このような言葉に再度結晶したのかも知れません。
2007年08月25日 10:06
 aostaさん。おはようございます。
 このCD、わたしも入手することができました!
 aostaさんがお書きになったデュファイはもちろん、メインのオケゲムのミサ各曲も、ことのほかすばらしく、おそらく一生大切に聴き続けていくCDになることでしょう。
 このCDの演奏によって、わたしは、わたしのコメントに反応してStanesbyが書いてくださったことを、正に、心の底から、実感させていただきました。
 この演奏について、技術的、時代様式的な問題を指摘するのはかんたんでしょう。
 でも、ゴットヴァルトさんは、しっかりと「相手を認めて」演奏なさってる。宗教曲ですから、心からの祈りを捧げているのはもちろんですが、それとともに、こんなにすばらしい曲があるんだ、というのを、わたしたちに教えてくださろうとしてる。
 系統だった大量の録音、しかし、1曲1曲、真摯きわまりない録音こそ、その証だと思います。
2007年08月25日 10:10
(続きです)
 もしかしたら、わたしがバッハを好きなのも、きちっとわたしたちのために、わたしたちの方を向いて音楽を書いてくれたからかもしれません。
 考えてみれば、わたしが、これまで最も心を動かされた音楽は、ある知人が、わたしのためだけにひいてくれた、なんでもないような一曲です。

 aostaさん、わたしはこれまで、得意そうにaostaさんにいろいろな音楽をご紹介しているつもりになっていましたが、そんなaostaさんからこのようなCDを教えていただいたことが、何よりもうれしいです。
 それに、(前にも書きましたが)ボッティチェルリと結びつけたaostaさんの得意技のおかげで、こんなにたくさんの方にデュファイの記事を読んでいただき、その名前を知っていただけた。まるで夢のようです。
 ほんとうに、いろいろとありがとうございました。心から感謝します。
 では。朝から、長文失礼いたしました。
2007年08月26日 06:23
◇Noraさん、おはようございます。

すごくすごく嬉しいコメントでした!
ありがとうございます。
CD手に入れられたのですね?
そうして聴いてくださったばかりでなく、心から感動し喜んでくださった。
そのことが生き生きと喜びを持って書かれた文章に感動しました。
私は、いつもいつも考えてしまうのです。
音楽は、不思議です。音楽って何なんでしょう。

Noraさんと私が、時間と場所を越えて同じ音楽に心を震わせている不思議。
もっと大きく考えれば、デュファイやオケゲム、バッハなど、遥か、いにしえの時代の人々が作り上げた音楽を、こうして今、私達が大きな感動と敬意を持って聴いているという事実。

彼らの音楽は時代を超えた、現在の私達のために、このような素晴らしい贈り物を残してくれたのではあるまいか。
そんな風におもってしまうほど、直接的に響いてくる音たち・・・
2007年08月26日 06:59
Noraさん、続きです。

>考えてみれば、わたしが、これまで最も心を動かされた音楽は、ある知人が、わたしのためだけにひいてくれた、なんでもないような一曲です。

私にも、まったく同じ経験がありました。
ピアノを習ったことがない人、でもその思いの全てをピアノに託して弾いてくれたゴルドベルグのアリアです。
あのときの想いは今でも大切なかけがえのない思い出です。

>そんなaostaさんからこのようなCDを教えていただいたことが、何よりもうれしいです。

今回のCDに出会えたのは、その始まりにNoraさんがいらしたからですよ!
順番をお間違えになりませんように(笑い)!
私はNoraさんのおかげで、この時代の音楽にめぐり合うことが出来たのですから。

本当に本当にありがとうございました。
2007年11月11日 11:30
aostaさん、やっと「スターバト・マーテル」の続きを書き終えました。こちらの記事について引用・言及・文中リンク等はらせていただきました。お手数ですが、ご確認いただけますか?引用の不備等ございましたらお知らせください!
また、aostaさんのテーマ「神の前に、神と共に、神なしに生きる」とは大きなズレがあるため恐縮なのですが、トラックバックさせていただきました。
2007年11月11日 22:13
◇Fu Shuseiさん

リンク、そしてTBありがとうございました。
素晴らしい記事をありがとうございます。
Fu Shuseiさんの文章で、私の思いつきのような感想が特別の物になったかのようです。ブログもゆっくりは拝見させていただきます。
コメントは・・・
一体なんて書けばいいのやら(笑)

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