『リーメンシュナイダーの世界』 植田重雄 ② / 笛吹きハンス

リーメンシュナイダーとヴュルツブルク。
両者は一対どんな関係にあったのだろうか。

そしてなぜ、ヴュルツブルクは、恩人とも言うべきリーメンシュナイダーを、葬り去ろうとしたのか。
以下は本書の要約と、ごく若干の私感である。


16世紀中葉のヨーロッパにあってドイツは、イギリス、フランスのように中央集権の国家を持ち得なかった。
まがりなりにもドイツをひとつの国家としていたのは、「神聖ローマ帝国」としてのキリスト教文化による精神的結合であった。
同時に、王権ではなく、宗教の力によって、歴史の局面に対処せざるを得なかったドイツは、他のヨーロッパ諸国の中でも特にローマ教皇の権威に対し忠実であり、またそれがために、司教、修道院の権威と支配は絶大なものがあった。
このドイツにおいて、カトリックの修道士であったルターが、ローマ教皇および教会に異を唱えたのは1517年のことである。
ルターは、教皇の聖書解釈権、教皇権が俗権に優先することなどを批判した。
「神の義」を何よりも重視した彼は「信仰により」「聖書のみ」と高らかに宣言したのである。

このルターのカトリック批判を遡ること40年あまり。
すでにドイツにおいては農民戦争の予兆とも言うべき事件がおきている。
領主や地主の過酷な搾取に耐えかねた農民たちが、ハンス・ベームという笛吹きの青年の語る言葉を強力に支持したのである。


画像

農家の天窓から農民に説教するハンス


  森、畑すべては人間の共有であり
  苺、きのこの出る森も、水の中の魚も
  空の鳥もすべては人間のもの、しもべたちのもので
  地主だけのものではない

ハンス・ベームはこうした歌を歌い農民に呼びかけた。
専横な領主に不満を持つ下級騎士もまた農民たちと一緒になって蜂起した。
「アダムが耕し、エヴァが紡いでいたとき、どこに貴族がいたか」
農奴制への批判は、原始キリスト教への回帰を目指す物でもあった。
一介の「笛吹き」であったベームは、1467年、捕らえられ、裁判にかけられることもなく、火刑台での死を迎える。
しかし彼が放った小さな火は、やがて燎原の火のようにドイツ全土に広がってゆく。
そしてルターの「聖書にかえれ」という叫びに応えて登場したトマス・ミュンツァーが唱えたのは、すでに宗教改革ではなく、キリスト教的共和主義の実現、すなわち社会改革への情熱であった。
宗教改革は、すでにひとつの導火線にすぎなかった。

ルターとミュンツァーの言葉に大儀を見出した農民戦争が最初の狼煙をあげたのは1524年。
麦の収穫の季節であったという。
その最初から、虐殺は虐殺を呼び、破壊は、更なる破壊を招いた。
ひとつの村が壊滅することさえ珍しくはなかった。
人々は家や家族を失って流浪し、行く当てもないまま狂気の農民軍に身を投じた。

ミュンツァーに従う福音派にとって、教会の絵画、彫刻、祭壇などは全く不要なものであった。暴徒と化した農民は多くの祭壇や美術品を破壊し、焼き尽くした。
30年でドイツの人口は半分になったという恐るべき事実をみても、いかにこの殺戮と破壊が徹底して凄まじいものであったかをうかがい知ることができる。
言うならば一種の集団ヒステリー的破壊と殺戮が日常となった悪夢のような時代であった。


そしてリーメンシュナイダーはといえば。
暴徒化した農民軍がヴュルツブルグを完全包囲し、無条件降伏を迫ったまさにそのとき、彼はヴュルツブルグ市参事会の重要メンバーの一人であった。
彼の寡黙にして誠実な人柄、厚い信仰、類まれな彫刻の才が人望を集め、市長として選ばれたこともあったリーメンシュナイダーは、長いこと市の重職にあって、困窮する農民に終始理解を示し、その不条理に憤って農民や虐げられた人々のために奔走した。
彼は常に弱き者に手を差し伸べる、真実「心聖きもの」であったのだ。

しかし。
長引く包囲戦に疲弊した市民の生活と安全を守るため、農民軍の要求を呑まざるを得なかった当時の市参事会に対し、後に勢いを盛り返し農民軍を一掃した皇帝軍は、この時のヴュルツブルグの「和議」を、皇帝に対する反逆とみなした。
市の責任者たちは次々と逮捕、投獄され、市民を加えれば、その数、150名にも及んだという。

「この動乱の日にあって、人間は雌鶏よりも軽く見られていた」
とは、罪人となった彼らを待っていた「投獄、恐怖、拷問」の日々をからくも生き延びた、市の書記官、クロンタールの言葉である。
リーメンシュナイダーとて例外ではなかった。
彼は地下牢に投獄され、一切の公職から追放されただけでなく、財産もほとんどを没収された。
どんな拷問を受けても罪状告白をしなかった彼が死罪を免れたのは、まだしもの幸いであったのかもしれない。
彼が右手の指や腕の関節を折られたと伝えられるのは、このときの拷問の結果であるとも言われている。。
この悲劇的な事件以降、彼は一切何も語らず、深い沈黙を守ることになる。

彼は最後まで、農民を愛していた。
自身を市長にと推挙してくれたヴュルツブルグの市民を、ヴュルツブルグの町を、愛していた。
しかるに農民もヴュルツブルグも、彼を過酷なまでに裏切った。
教会から、町から、彼の作品はすべて取り払われ、破壊され、失われた。

リーメンシュナイダーがもっとも愛したヴュルツブルグは、彼を歴史から抹殺した。
こうしてリーメンシュナイダーの名前と作品は忘れ去られたまま、300年という年月だけが流れていった。


画像

シュトットガルト市 郷土美術館 「悲しむ女」


シュトットガルト市にある彫像「悲しむ女」。
本来、埋葬のための祭壇彫刻として制作されたものらしいが、他はすべてなくなりこの女性像だけが残ったと推察されている。
イエスの亡骸に香油を塗って葬ろうと、最後の別れをする場面を刻んだものが埋葬像である。
深くベールを被ったその表情は、敬虔で悲痛な悲しみに溢れている。
女が差し出す両手の先は欠損している。
顔の左半分、額にかかるヴェールの端から、眉間、頬にかけて残る真っ直ぐな傷は、破壊の名残であろうか。
それはまるで、声もなく流された涙のあとのように見える。

これらのリーメンシュナイダーの作品以降、ヨーロッパにはもはや中世の魂で貫かれた彫刻を見ることは不可能である。
彼の死は、一芸術家の死という意味だけではなく、中世の終末をも告げるものであった。


     正しく祈るとはどんなことか、知りたくば、
     人よ、あなたの内部にはいって、神の心にたずねなさい。

                            アンゲルス・シレジウス「瞑想詩集」


この記事へのコメント

2007年10月19日 09:26
リーメンシュナイダーはどうして傷つけられたのか、そういうことだったのですね。市民から裏切られても町をあいした彫刻家、彫刻家というより深く大きな人間だったのですね。人の悲しみを深く知っていたからこそ「悲しむ女」のような作品ができたのでしょうね。
2007年10月20日 15:50
 こんにちは。今回の記事は、大作ですね。
 リーメンシュナイダーという名前は初めて知りました。
 また、さまざまな角度から本の内容等をご紹介していただき、いろいろなことを考えさせられました。特に世界史にはあまりくわしくないので、バッハの時代以前の雰囲気がつかめたのは大きな収穫です。
 良い記事を書いてくださり、ありがとうございます。
2007年10月22日 08:43
◇森の生活さん
 おはようございます。

「リーメンシュナイダーの世界」、実はここまでのめり込むとは思っても見ませんでした。
ただ一枚の写真、前回の記事であげました、マリアの手、祈る手の美しさに惹かれて読み始めた本でした。
リーメンシュナイダーという数奇な運命を生きた人間の、静かな、けれども決して揺るがない信仰。人間は彼を裏切りましたが、彼の信仰は決して彼を裏切ることがなかった。これは、本当にすごいことだと思います。
シュッツも同じ時代を生きたことと重ね合わせてみて、この農民戦争・30年戦争がドイツという国に刻んだ傷の深さを思います。
深く傷つき、深く求めた・・・
『悲しむ女』を見てこころからそう感じます。
2007年10月22日 16:51
◇Noraさん
 コメントありがとうございます。

>今回の記事は、大作ですね

私もまさか3回にもなるとは思わなかったのですが、それだけ私にとって重い本だった、ということになるのかもしれません。
この本は第一部が、リーメンシュナイダーの生涯について、続く第二部が彼の作品を巡る旅と、その作品に触れたとき、著者が深く思索した、祈りにも似た想いが綴られています。
読み終わってしばらく、リーメンシュナイダーと彼が生きた時代から現在に戻ってくるまで、しばらく時間がかかってしまいました。
未だ、タイムラグ状態かもしれません。

この記事へのトラックバック