『リーメンシュナイダーの世界』 植田重雄 ③ / ユダの変貌



「イスカリオテがイエスに似ているのがお分かりでしょう。」

早春のローテンブルクを訪れたこの本の筆者・植田氏は、リーメンシュナイダーの最大規模の彫刻と言われる晩餐祭壇の彫刻を見ていた際、一人の若い司祭に、こう、声をかけられた。
晩餐とは、言わずもがな、キリストの「最後の晩餐」である。
すでに自らの死を知っているキリストは、弟子たちの一人が自分を裏切ることを予告し、弟子たちは激しく動揺する。
新約聖書の中でももっとも緊迫し、劇的緊張感を持って記されている場面のひとつである。


「はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」弟子たちはだれについて言っているのか察しかねて、顔を見合わせた。
イエスのすぐ隣には、弟子たちの一人で、イエスの愛しておられた者が食事の席についていた。
シモン・ペテロはこの弟子に、だれについて言っておられるのかと尋ねるように合図した。
その弟子が、イエスの胸元に寄りかかったまま、「主よ。それはだれのことですか」と言うと、イエスは「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」と答えられた。
それから、パン切れを浸して取り、イスカリオテのシモンの子ユダにお与えになった。
ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った。
そこでイエスは「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と彼に言われた。
座についていた者はだれも、なぜユダにこう言われたのか分からなかった。
ある者は、ユダが金入れを預かっていたので、「祭りに必要な物を買いなさい」とか、貧しい人に何か施すようにと、イエスが言われたのだと思っていた。
ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。
夜であった。

                           ヨハネによる福音書 13:21~30


このあとイエスはペテロの離反をも予告するのだが、ここではひとまずユダについてのみ考えてみたい。

この祭壇彫刻でイエスと向かい合う形でわたしたちに背を向けているのがユダである。
キリストが後列左から3人目。
対するユダは背を向けているとは言え、この彫刻の前列中央。
リーメンシュナイダーが刻みたかったのは、キリストというよりむしろこの、裏切りのユダであったのではないかとさえ私は思う。

ユダはすでにこの時点で、祭司長らと銀30枚でイエスを売る約束を取り付けている。
ユダがイエスを裏切らなければならなかった必然とはいったいどこにあったのか。


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ローテンブルク晩餐祭壇 (中央部)



若い司祭が指し示したのは、この晩餐彫刻の中央ではなく、祭壇右手の翼扉の浮き彫りとなっているユダの像であった。
最後の晩餐のあと、ゲッセマネの園で一人心血の祈りを祈るキリストの像がある。
そこへイスカリオテのユダが祭司長やローマの兵隊、物見高い群集らの先頭に立って
よろめくように走ってくる。
このイスカリオテは最後の晩餐の時の顔ではない、と司祭は言うのである。
晩餐像では、卑しく、猜疑心に満ちた弱々しい表情をしていたユダが、このゲッセマネにおいては全く変貌している。
髪を振り乱したユダには、どこか使命遂行の悲痛さガある、と著者植田氏も書いている。
キリストを裏切った忌むべきユダのイメージはここにはない。


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ローテンブルク晩餐像右翼

この晩餐像右翼では中央にひざまずいて祈っているイエス。
前景にはイエスを待ちきれずに眠ってしまった弟子たち。
そして右手上後方には、イエスを捕らえようとする祭司長や兵士を引き連れて走り寄るユダが彫られている。
ちょっと判りにくいかもしれないが、拡大して見てみよう。

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ローテンブルク晩餐像右翼部分 前列左端がイスカリオテのユダ



「ユダは主イエスの影の人として、メシアに反逆をおこない、神の子の秘められた敵対者となるように、神の定めた道を歩いているようである。」
または「ユダはもっとも信仰深い使徒の一人であった」
中世以来この見方は底流として存在していた。ユダを憎むべき存在として描いている受難劇や美術は枚挙にいとまない。しかし、リーメンシュナイダーはユダを変貌させ、人間の弱さを示す一人物として画いている。
・・・中略・・・
「なんじのなすべきことをなせ」と言われた瞬間、彼はイエスの分身のごとく変貌する。
神は救世主をこの世に現わすためにさまざまな手段をもって、人間の罪深さや弱さを含め、多くの存在の働きを通じてこれを成就しようとした。
イスカリオテの存在もその一つであろう。

中世の神学に、『神は曲線をもって直線をえがく」という言葉がある。
この変貌のイスカリオテはリーメンシュナイダーの暖かい宗教的心情の結晶でなくてなんであろうか。」

                 「リーメンシュナイダーの世界」本文より引用



キリストの言葉を聞くや、すぐに席を立ったユダ。

「夜であった。」

この唐突とも思える短いひとことに、わたしはこの上なく激しいドラマを感じる。
キリストを裏切る、という使命ために、闇夜をついて走るユダの、ちぎれる悲しみと慟哭。

果たしてユダは本当に裏切ったのか。
この問いはユダが駆け抜けた闇のようにどこまでも深い。




この記事へのコメント

2007年10月19日 09:37
イエスを裏切ったユダ、そして最後には弟子たちも逃げ去ってしまった。イエスはそんな人間の弱さをよくわかっていて十字架について死んだ。彫刻家はイエスの深い愛を信じ、ユダや弟子たちはは自分自身であると理解していたのでしょうね。
2007年10月20日 16:21
 わたしはキリスト教のことはよくわかりませんので、音楽の視点から、少しだけ。(またバッハです。すみません)

> 「夜であった。」

 わたしも、この一言は、ほんとうにすごいと思います。ヨハネ伝を象徴するような表現ですね。
 正にこの直後、ユダが兵卒たちを連れてくるところから、バッハの「ヨハネ受難曲」は始まるわけですが、
 受難曲、特に「マタイ」の中で、ユダやペテロの裏切りのシーンに、バッハがつけた音楽の慈愛の深さ、それこそが、これらの受難曲を西洋芸術上突出したものにしている最も大きな要因であろう、ということは、よく言われます。
 「マタイ」の中で、例の「インスブルック」の美しいコラールが使われたのは、この記事の中でaostaさんがお書きになった、最後の晩餐のユダのシーンに他なりません。
 バッハよりも200年以上も前に、同じような視座からユダたちを見つめる芸術家がいたことを知ったのは、とても大きな収穫でした。
 いろいろな音楽的なことだけでなく、このような伝統も、バッハに結実しているのですね。
2007年10月22日 16:31
◇森の生活さん

『神は曲線をもって直線をえがく』、すごい言葉だと思います。
どんなに真っ直ぐに神なるものを志向しても、人は弱い存在です。
思いに反して神様から離れていってしまう哀しさ、惨めさを考えると、私たちはすでにゆがんで曲がってしまっている精神の根っこに思い至ります。
光が射さない暗闇で、視力を失ったまま世代を重ねてきた深海の魚のように、光の存在さえ知らずにいる生き物たち。
けれど闇は光をその胎に宿し、ひかりは闇の中にこそ放たれるものでもあります。
闇と光、曲線と直線。
相対する物でご自分を指し示す方。
ユダはまさしく私たち以外のなにものでもないと、私も思います。
2007年10月22日 23:25
◇Noraさん

ユダはキリスト・イエスを「売った」あと、死を選びます。
聖書において、その最期は無残な物として記されていますが、4福音書それそれの表現は微妙に違っています。そこに何かの意図的なものが隠されているのではないか、と思うのは深読みでしょうか。
ユダがあえて裏切りという使命を引き受けたとすれば、ユダの死と、死してなお人々の憎悪の対象として聖書に記録されたことこそが、ユダの十字架であったのではないかとも思えてなりません。ユダもまた私たちの裏切りの身代わりとなって十字架を負ってくれた・・・
バッハやバッハに繋がる多くの芸術家たちもまた、ユダの裏切りに、何度となく神を裏切る自分自身を重ねて見ていたのではないでしょうか。
2007年10月22日 23:29
◇Noraさん、続きです。


バッハがユダのために、またペテロのために紡ぎだした音楽の壮絶なまでの美しさ、深さの底辺にあるものは、こうした弱さのうちにこそ神の力が働くというパラドックスなのかもしれません。そして、この「にもかかわらず」のパラドキシャルな愛こそが、イエスの真実であるということを、音楽という至高の美しさで表現しようと試みたのではないかと思うのです。
かつてキリスト教会で、芸術の中でも最高の芸術として位置づけられ、神様に捧げらた音楽によって、バッハは人間と神様の壮大なドラマを表現したのではないでしょうか。
   ↑
今夜は少しワインをいただきました。
そのためか否かは分かりませんが、かってに指が動いてキーインしてしまいます。いわば形だけ「自動書記」状態です(笑)
意味不明なところ、お許しくださいませ。
Stanesby
2007年10月27日 16:42
私はユダには興味があります。
イエスは、ユダの体の中に悪魔が入り込んだのを知っています。ですからイエスが語りかけているのはユダではなく、悪魔にです。ところが人間にはユダしか見えない。今、人びとが目の前にしている人間ユダをワルモノにしてしまうのは人間の悲しさであり、またそうしてワルモノを作り出すことによって平穏が保たれるという図式は、2000年前も今も変わっていないのですね。
2007年10月27日 18:07
◇Stanesbyさん

>ユダをワルモノにしてしまうのは人間の悲しさであり、またそうしてワルモノを作り出すことによって平穏が保たれる

この言葉を何度も読み返して考えました。
キリスト教社会におけるユダヤ人差別は本当に根深いものがありますね。
その根底にるものはユダヤ人こそがキリスト・イエスを殺したという感情でしょう。
イエスを十字架刑につけたユダヤ総督ピラトは当初、イエスに派何の罪も認められないとして、釈放を提案しました。それに対しユダヤの民衆はあくまでイエスの死を要求して叫びます。
とうとうピラトは根負けして言います。

「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ。」
民はこぞって答えた。「その血の責任は我々と子孫にある。」そこでピラトはバラバを釈放し、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。
                マタイによる福音書 27:22~26
2007年10月27日 18:09
◇Stanesbyさん

続きです。
ユダはユダヤ人のいわば代表としてのスケープ・ゴート。
Stanesbyさんの仰られる、「作り出されたワルモノ」といってもいいかもしれません。
ユダの弱さは、ペテロの弱さであり、ひいては私たちの弱さです。
同じようにキリストを裏切ったペテロは「天国の鍵」を預かった者としてカトリック教会の教皇制の基となり聖人に列せられています。
一方、悪魔が入ったとされたユダは、救いの対象ではありません。
死の苦しみを持って自分犯した罪の深さに対峙したユダは救われることなく、今に至ってなお、憎悪の対象であることに私も疑問を感じてしまいます。
しばらく前に「ユダの福音書」が話題になった折の教会の反応にも、個人的には首を傾げたくなる物がありました。

良くも悪くも変われないのが人間。人は人を救えないのです。
だからこそ、人智を超えた大いなる存在を求めてやまないのではないか、と思う事は、主観的に過ぎるでしょうか。
ぱでえたん
2007年12月29日 01:43
こんばんわ。
通りすがりのものです。昔の記事にコメントし、ごめんなさい。

「にもかかわらず」の愛、本当にそう思います。

>一方、悪魔が入ったとされたユダは、・・・感じてしまいます。

簡単に言えることではないのかもしれませんが、神様がこの世のすべての人を愛し赦す為に十字架にお架かりになったのだとするなら、ユダは救われる最期の人として、今も主と共に苦しんでいるのではないか、その役目を担ったのではないか。。。と言うイメージが私にはあります。
ペテロが天国の鍵を預かったのなら、ユダは最後にその扉を閉める人です。

今年のクリスマスの燭火礼拝で、心に残った聖書の箇所は
「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」(ヨハネ:1章5節)
と、言う言葉です。
暗闇は光を理解しなかった。。。
ユダが駆け抜けた夜の闇。。。
私の隣には心に闇を抱え苦しんでいる友がいました。

私たちは様々な暗闇を背負っています。
けれども、暗闇が理解せずとも、光は輝いているのです。
理解を超えたところに、神様の愛があるのですね。
それが、救いなのですね。。。
2007年12月29日 07:23
◇ぱでえたんさま

ようこそお出でくださいました。
本文だけでなく、コメントにも丁寧に目をお通しくださいましたこと、本当に嬉しくまたありがたく思います。

>ペテロが天国の鍵を預かったのなら、ユダは最後にその扉を閉める人です

ユダは最も愛されていた弟子の一人ではなかったか、とは常々感じていたことですので、このお言葉は深く心のなかにしみ渡ってまいりました。
素晴らしい言葉をありがとうございます。

>私の隣には心に闇を抱え苦しんでいる友がいました。

お友達の苦しみにも光りが差しています。
お友達にも、ぱでえたんさんにも、光りは絶えることなく降り注ぎ、その存在を輝かしていてくださいます。ぱでえたんさんが教えてくださったそのことを、私も大切に思っていきます。

つたないブログですが、ぜひまた運びくださることをお待ちしております。
どうぞ良いお年をお迎え下さい。

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