フォーレ『レクイエム』とミレー『春』 / 内在する希望



 フォーレの「レクイエム」が無性に聴きたかった。
どちらが好きと問われれば、モーツァルトのレクイエム、と答えるかもしれない。
だがしかし、フォーレでなければならないときがある。

 ひたすら天の高みへと収斂していくモーツァルトではなく、凍えた冬の大地を潤し、春の目覚めへと誘う慈雨のようなフォーレのレクイエム。
そこには一点へと集束されていく高潔な祈りとはまた少し違う、ひそやかな春の雨のような、流れる涙のような、降り注ぐ憐れみと慰めがある。
安寧に満ちたまどろみは、死をも、豊穣な祝福をもって受容するかのごとく拡散していく。
ここには神と人との乖離はない。
生と死も、緩やかに互いの手を組み、淡い光りの中で微笑み交わしているかの音楽。
それがゆえに、時として「キリスト教的でない」と言われるこのフォーレのレクイエムではあるが、ミース・ファン・デル・ローエの「細部にこそ神は宿る」という言葉に思い至れば、この「汎神論的」レクイエムもまた、神への祈りの表れそのもであることに気づかされる。

モーツァルトのレクイエムが垂直線上で神に出会う音楽だとしたら、このフォーレのレクイエムは、水平線上の一点から一点へと、神と人とが限りなく近づいていく音楽のような気がする。

死は忌むべきものではない。
死は、「生」が行き着くところではなく、そこから始まる新たな希望を内在させるもの。
フォーレのレクイエムからは、その内在する希望の、静かで暖かい息遣いが聞こえて来る。

画像

                      ジャン・フランソワ・ミレー「春」(1863~1873年)

ミレーの『春』・・・
 暖かな水蒸気の気配が、煙るように柔らかく大気に満ちている。
雨はまだ上がったばかりだ。
空の大半を覆っている雨雲の切れ目から、眩しい青空がのぞき、射し初める光の中で二つ重なった虹が輝いている。
幻のような輝きの中を、暗雲は退くように上空の風に流されていく。
空には静と動の激しい交代のドラマがある。
対する大地は穏やかに潤っている。
雨も太陽の光りも、今や豊かな実りを約束する大いなる恵みとして万物に降り注いでいる。  




   主は我々を引き裂かれたが、いやし
   我々を打たれたが、傷を包んでくださる。
   二日の後、主は我々を生かし
   三日目に、立ち上がらせてくださる。
   我々は御前に生きる。
              
   我々は主を知ろう。
   主を知ることを追い求めよう。
   
   主は曙の光りのように必ず現れ
   降り注ぐ雨のように
   大地を潤す春雨のように
   我々を訪れてくださる。
                     ホセア書 6:1~3 

                          <3月27日に逝った人の思い出に・・・>


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