ヤーコプ・ヨルダーンス 『聖家族』  


もう先月の話になってしまいましたが、松本市美術館で開催された国立西洋美術館所蔵作品巡回展に行ってきました。
サブタイトルには「神々と自然のかたち」。

ヨーロッパの美術をより深く理解する上で重要なのはギリシャ・ローマ神話とキリスト教であるとはよく言われることですが、今回の美術展のテーマも「神々と自然」という視点からの展開です。
その中で強く印象に残った一枚の絵が、ヨルダーンスの「聖家族」でした。


画像

ヤーコプ・ヨルダーンス 「聖家族」 1620年頃 国立西洋美術館



ポスターにも使われているヨルダーンスの「聖家族」。
母マリアに抱かれ、父ヨセフの眼差しの元で微笑む、幼児キリスト、一見して穏やかな愛情に溢れた絵です。しっとりとした憂いを浮かべたマリアの胸にもたれるように抱かれているキリストは愛くるしくまるまると太っています。
差し伸べられた右の人差し指の先にあるものは、神の道でしょうか。
それとも幼い子供が何か急に興味をひかれたものを無邪気に指差す、あの仕草でしょうか。

しかしヨセフは・・・
光を浴びて浮かび上がるように描かれる聖母子に対して暗い背景の中に半分沈んでいます。
口許にこぶしをあて視線を落としたその表情には、苦しみや悩み、悲嘆さえもが感じられます。
健やかな美しさに満ちた若きマリアと、老いたヨセフ。
キリストの母としてのマリアが、列挙のいとまがないほど数多く描かれているのに比べ、ヨセフが描かれた作品は驚くほど少ないのです。

灯りの中に浮かび上がる聖母子と、主の降誕に駆けつけた羊飼いたちに主眼が当てられた同じくヨルダーンスの作品「羊飼いの礼拝 」
ここでも、聖母子をひっそり見守るヨセフは、光の当たらない後方に描かれています。

マリアの配偶者であり、キリストの養父であったヨセフ。
許婚とはいえ自分のあずかり知らぬところで懐妊したマリアを一度は離縁しようとしたヨセフでしたが、夢に現れた天使によってマリアの受胎を神の業(わざ)であることを受け入れました。



『母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたになることを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。
このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。
「ダビデの子、ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名づけなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。

・・・中略・・・

ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。』

                         マタイによる福音書 1:18~25 新共同訳



聖書はただ簡潔に、このように書いています。けれどもはたしてヨセフは何の葛藤もなく、この不条理を、またマリアを受け入れることができたのでしょうか。
もしかしたら、マリア以上の悩み、苦しみ、迷いがそこにあったのではないかと私は思います。
子供を宿す、ということは女性にとってある意味本能的な許容。
しかし男性が父になるということは、また別の意識、認識であり経験なのではないか。
マリアと同じくヨセフもまた、その信仰ゆえに選ばれた、と言ってしまえばそれまでですが、夫として、父親としてのヨセフの葛藤がどれほど深刻なものであったか想像を超えています。
しかも彼は、マリアとキリストを家族として守っていくという大きな責任がありました。全ては神様のご計画であったにせよ、現実にあって矢面に立つのはヨセフをおいて他にはいないのですから。

マリアの受容。
そしてヨセフの覚悟。
それはぎりぎりのところに立つ、後のない覚悟。
信じて受け入れる、積極的な、しかし悲壮ともいえる覚悟であったことに違いありません。
平安や慰めとは無縁の覚悟です。

けれども聖書でマリアが語られたように、ヨセフが語られることはありませんでした。
おそらくは、キリスト磔刑以前に死んだと思われるヨセフですが、その記述は聖書のどこにもありません。
キリストの十字架上の死を見届け、キリストの母として弟子たちに敬愛され、見守られて逝ったマリアに比べ、ヨセフはその最後まで影の存在なのです。

神の子の受肉という奇跡のための器として用いられたマリアに「キリストの母」と言う位置づけがなされても、養父としてのヨセフにスポットが当たることはあまりないのでしょうか。

ヨルダーンスのこの作品は、人間イエスの「この世での父」であることを全うしたヨセフの生涯を考えさせられた一枚となりました。
ヨセフという人間は、聖書に書かれている以上に大きな存在、大きな人間であったのではないかと思ったのです。



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