J.S.バッハ『ミサ曲ロ短調』BWV232

 『我々が読むのは、我々が我々のみでいるのではないことを知る為である』
私たちは独りではない "We are not alone"・・・

イギリスの作家であり神学者でもあった C.S. ルイスの言葉である。

この言葉の後ろには人間存在としての「独り」という意味だけでなく、神があってこそ「人が在る」というキリスト教的認識がある。
そしてこの「読む」という行為は、私にとって「聴く」という行為と同義である。

 

J.S.バッハのミサ曲ロ短調。
この曲を聴くたびに私は至高の精神と共に吹き来る風のような力を感じてしまう。
ヘブライ語で「風」は”ルーアハ”。
聖書に、「風はいずこより来たりて、いずこへ行くかを知らず。されど、風の吹くところいのちが生まれる」との記述がある。
「風」とは、「聖霊」とか「命の息」を意味する言葉(ギリシア語、Pneuma) でもある。

画像


『初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面(おもて)にあり、神の霊が水の面(おもて)を動いていた。』創世記1:1  

聖書はこの言葉によって始まる。

まず第一部の「キリエ(主よ、哀れみたまえ)」。
ここには確かに風が吹いている。
 何かの決意であるかのように、荘重な合唱で始まるこのキリエは、ロ短調の沈痛な雰囲気で始まり、やがて清澄なニ長調によるソプラノとアルトの二重唱へと続いてゆく。
最後に再びの合唱で終わるこのキリエには、通奏低音の響きと相まって、神秘的なと言ってもいい、何かただならぬ雰囲気がある。
それが哀しみなのか、怖れなのか、わからない。
その悲しみの淵、底なしともいえる怖れの深さに引きずり込まれてしまいそうな闇の中で、「主よ哀れみたまえ・・・」この祈りの言葉だけが響き渡る。
打ちのめされて搾り出すように発声されるこの言葉に迫ってくるのは、生も死も、時間さえない原初の暗澹とした水面(みなも)を、音もなく渡ってゆく神の霊の「気配」だ。
そしてそれはやがて創造されるであろう光を内在させている「気配」でもある。

それから私の好きなクレド。
特にその最終で歌われるコラール「我は罪の許しのための洗礼を信ず/Confiteor unum baptisma in remissionem peccatorum」の中の” in remissionem イン レミッシオ”という言葉の持つ響きと旋律が、次々と重なってゆくところではいつも心が震えてならない。
ここにも風が吹いている。
そして「声」とは、まさに「風」なのである。
「声」が旋律を持った合唱となり、さらなる力を得てあたかも壮大な「風の宇宙」のようなこのミサ曲を、絶えざる律動と祈りのエネルギーに満ちたものにと変えてゆくかのようである。
サンクトゥス、アニュスデイ以下の曲の多くは旧作のパロディといわれるが、しかし。
バッハの”パロディ”は二番煎じや間に合わせなどでは決してない。
いうなれば、何度も濾過を繰り返し最後に残った純粋な結晶のような音楽。
全ての贅肉をそぎ落とした簡潔さと高潔な祈りのうちに、このロ短調ミサは終わるのである。

 
ルター派のプロテスタントであったバッハが、カトリックのミサ曲という形を持って後世に残したかったもの。それは、単なる旧作の集大成ではなく、バッハの全ての想念がこのロ短調という作品のために、意識的にまた無意識のうちに用意され、集約されていった結果であると思う。
「カトリック」とは本来「普遍的な」という意味をもつ。
プロテスタント教会は「カトリック教会」から別れ、発展したものであり、その音楽もまた、カトリックの音楽的伝統に繋がるものであろう。
プロテスタント、カトリックという、しょせん人間の間での解釈の違いや教会のあり方を超えたところで、とうとうと流れ続けてきたものがあるはずだ。
バッハが合流したのはまさにこの源流とも言うべき大河であったのではないだろうか?

冒頭のルイスの言葉に戻ろう。
『我々が、我々のみでいるのではないことを知る為である』
彼の音楽に絶えざる神性を感じるのは、バッハが深く信仰の人であったからに他ならない。
バッハの音楽を聞くとき、私たちは神とともにいる。
私たちは独りではない "We are not alone"
この言葉の真実を、まさに全身で感じるときである。
宗教という、私達を隔てる壁を越えて、魂の奥底にまで届けられる祈り、聴くもの全てを高いところへと導く音楽。
たたきのめされ、打ちひしがれたとき、それどなお「お前はひとりではない」と手を差し伸べてくる音楽。
それがこのミサ曲ロ短調であり、バッハの音楽であるように思う。

◇写真は シモン・ヴーエ『キリストの神殿奉献』。
フランス古典主義のバロック様式の巨匠。
聖母マリアと夫聖ヨセフは幼子イエスを連れ、神殿に奉献するためエルサレムに来ていた。
神から聖別されていた老シメオンは、神殿で幼子イエスに出会い、彼を抱いて神を称え、この幼子こそが救い主であるとを宣言する。
それは同時に後に降りかかる救世主イエスへの受難の預言でもある。
この「キリストの神殿奉献」は今まさにシメオンによる宣言がなされようとする場面を描いたものである。

この記事へのコメント

2007年02月18日 09:32
TBありがとうございました。
こちらからもさせていただきますね。

ミサ曲ロ短調。

一切を超えて
そのもので燃えるひかり

ひとりではない
ここにいない すべての人とともに
わたしは在る と。
2007年02月18日 10:18
◇Suzuka さま

>ここにいない すべての人とともに

いい言葉です。
ここにはいない。
しかし同時に、その不在とともに私は在る。

TBお待ちしております(笑)。
nagisa
2007年02月18日 11:08
aostaさん、ここのブログで失礼ですけど、
梨木香歩の『家守綺譚』を図書館で見つけました。
私の好きな短編形態で、素敵な植物がたくさん。これは読みやすいと思いました。
もうひとつあったのが、「からくりからくさ」
読み始めましたが、う~ん、最後まで行き着けるかどうか・・・
裏庭やいちごも読みたいのですが、もう、文庫本になっているのですか?「クローディアの秘密」は、県立図書館からお取り寄せ。まだまだ届くのは、先のことですが、楽しみです。
短編エッセーで絵と文がよかったのが、「真夏のクリスマスローズ」BISESに寄せられたものを一つの本にまとめたもので、これも知人から薦められました。
2007年02月18日 11:39
nagisaさま

横から失礼。
梨木香歩、たいへんマイナーですが
「マジョモリ」は名まえとは裏腹に
幼きころ、母との交感を描いて好きな本です。

ほかに、もすこしメジャーどころでは「蟹塚縁起」も。
2007年02月18日 19:46
◇nagisaさま

「からくりからくさ」。
いけるものも死せるものも、全てをからめとってゆく生命のエネルギー。
バロック的ともいえる対象的な概念の対立の中で永遠を希求するかのような生への情熱をも感じてしまう、不思議な物語です。
最後まで気を抜くことが出来ない物語ですね。
確かにとっつきは悪いかしら・・・
「裏庭」は文庫になっていたように思います。

>「真夏のクリスマスローズ」

 素敵なタイトルですね。
去年はBISESをゆっくり読む暇もなく、あわただしく過ぎてしまいました。
暖冬で、もうすでに薔薇の芽も動き出しています。
何の手入れもしてあげられないままであったにもかかわらず、なんて健気な薔薇たちでしょう。


2007年02月18日 19:55
◇Suzuka さま

TBありがとうございました。

「マジョモリ」その名前だけしか存じませんでした。
「蟹塚縁起」これはいいですね。
情念や憎しみ、悲しみ。許すという行為の重さ・・・
なんとも幻想的で美しい物語。昇華された物語という感じをうけますね。
nagisa
2007年02月18日 22:25
suzukさま、aostaさま
ありがとうございます。読んでみたいと思います。
梨木香歩さんは、マジョが好きなんですね。
それから、「蟹塚縁起」『家守綺譚』など大変難しい題で、読むのもよく読めません。四文字熟語でしょうか?
2007年02月19日 06:44
◇nagisaさま

おはようございます。
それそれ「かにづかえんぎ」「いえもりきたん」と読みます。
四文字熟語ではありませんが「縁起」も「綺譚」も日本の文学の伝統のなかの一つのスタイルとでも言うべきものかもしれません。
「かにづかえんぎ」トウキチと蟹たちの過去生における哀しくも無念な物語。何故「現在があるのか」という、過去の由来や歴史に付いて物語られてきたものを「縁起」というのだとおもいます。
『何々寺縁起』とか『何々山縁起』とか、ありますでしょ?
「家守綺譚」。
「きたん」も面白い言い伝えとか物語の意味だと思います。私の感覚では「綺譚」という言い方のほうが虚構性が強い感じがしますが。
永井荷風のも墨東綺譚」が有名ですね。
今回の「蟹塚縁起」[家守綺譚」は、いずれももちろんのことフィクションです。
2007年02月19日 06:45
古い家の留守番(つまり”家守”です)を頼まれた若い男が遭遇する摩訶不思議な物語。
植物が人間に恋をしてみたり、とうに死んだはずの人間が、のこのこたずねてきたり・・・
奇妙で、そして美しい物語です。
多分どちらも文庫になっていあると思います。

今思い出しました。
江戸川乱歩にも「パノラマ島綺譚」という本がありました(笑)

Suzukaさん、補足がありましたらお願いしますね。
もちろん「全面改訂」でも。
Stanesby
2007年02月19日 23:45
え~と、バッハはどこへ行ったのでしょう?
  ==> 天国かなぁ。

え~と、バッハはそこで何をしているのか?
  ==> ハ~モル(h-moll)。
2007年02月20日 06:52
◇Stanesbyさま

>え~と、バッハはどこへ行ったのでしょう?

あら。お気づきになりませんか。
バッハはいつでもStanesbyさんのお隣にいらっしゃるのでは?

>え~と、バッハはそこで何をしているのか?
  ==> ハ~モル(h-moll)。
  
お上手!!
さすがですね。
このセンスには逆立ちしても太刀打ちできません。
朝から傑作コメントで楽しませていただきました!!
Stanesby
2007年02月21日 23:12
頭の中が武満さんと佐田さんで一杯になっていまして、なかなかバッハに切り替えることができず、下手なコメントを致しました。お赦しください。

ロ短調という調をご存知でしょうか。
モーツァルトの大ミサ曲はハ短調、そしてレクイエムはニ短調。
そしてバッハの大ミサ曲がロ短調。
なぜか調性がみな近いのです。

バッハの時代と現代とでは、楽器の音程が約半音違います。
いま私たちが現代楽器でロ短調の曲を聴くと、バッハの時代にはハ短調の音で聴こえる筈です。逆に、モーツァルトのハ短調ミサ曲を古楽器による演奏で聴きますと、ロ短調の音に聴こえます。不思議ですね。

ロ短調の響きには、独特の悲しさを感じます。
ハ短調の響きには、独特の優しさを感じます。
たった半音違うだけなのですか・・・。
なぜバッハはロ短調を選んだのか、モーツァルトはハ短調を選んだのか、知りたいですね。

これは私の感覚です。徒然なるままに書きました。薀蓄ではありません。
2007年02月23日 20:40
 モーツァルトのことは知りませんが、バッハの場合、ロ短調は、ここぞと言うときの勝負調性でした。あまり一般には使わない調性なので、がぜんやる気になるのでしょう。記事にも書きましたが、バッハは自分に制約を課すのが好きでした。

 トーンについては、よく半音ちがう、と言われますが、時代、地域によって様々で、たとえば同じバッハでもヴァイマールとライプツィヒではまったく異なるため、(コアトーンとカマートーン)バッハ自身も苦労しましたし、わたしたちも困ってしまいます。
2007年02月23日 20:43
 すみません。続きです。

 あと、調性というのはは、音と音の関係なので、
 主音が近くても、やはり調性は異なります。
 例えば、バッハの時代のコアトーン変ホ長調は、カマートーンへ長調で、現代のホ長調とだいたい同ピッチですが、
 この場合、変ホ長調やヘ長調で演奏することはあっても、ホ長調では演奏しません。バッハがホ長調では書いていないからです。 
 ですから、これはあくまでもわたしの経験上の意見ですが、絶対音感が無い限り、すぐに慣れるので、やはり作曲家がロ短調として作曲したものは、ロ短調として聴いたほうがよいのかもしれません。そうでないと、たいへんややこしいことになってしまいます。

 せっかくトラックバックしていただいたので、続けて読む方のために、失礼とは知りながら、コメントさせていただきました。
 aostaさん、これはすべて薀蓄ですので、
 とりあえずほっておいてくださるか、不要でしたら削除してくださってけっこうです。
Stanesby
2007年02月23日 22:32
aostaさん、軒下をお貸し下さい。

Noraさん、はじめまして。
大変興味深く読ませて頂きました。

> ここぞと言うときの勝負調性
> あまり一般には使わない調性

この2点について、特に関心があります。
できますれば教えていただけないでしょうか。
もしくは、それに関するネットサイトや文献がありましたら教えて下さい。

調整については、発弦楽器やピアノ・チェンバロ等の鍵盤楽器はいいですけど、管楽器やオルガンなどは困ります。バッハの時代は、都市(あるいは教会=オルガン)で閉じていたから地方ごとに異なるピッチがあっても問題なかったと考えてよろしいでしょうか。
2007年02月24日 04:52
◇Stanesbyさま

 おはようございます。
武満さんと佐田さんのフィールドからバッハまでは、かなりの距離がありましたでしょうに、はるばるおいでくださいましてとても嬉しく思います(笑)。
 Stanesbyさんのバッハへの造詣の深さに及ぶべきも無い私は、Stanesbyさんがこのロ短調ミサをブログにアップされる前に書いてしまわないと、何もかけなくなるのでは、という「身の安全」のためにフライングしたようなものでした。どうぞごかんべんのほど。

ロ短調の響きには、独特の悲しさを感じます。
ハ短調の響きには、独特の優しさを感じます。

この言葉、この感覚にはまったく同感です。
>たった半音の違い・・・

人の心の不思議を感じます。
音(音楽)の神秘を感じます。
哀しさも優しさも、表裏一体となって降り注いできます。
バッハの悲しみ、モーツァルトの優しさは、霧雨のように私の魂をぬらして行きます。
2007年02月24日 04:53
◇Noraさん

おはようございます。
「薀蓄」大歓迎です。Stanesbyさんの「調性発言」に感応してくださったのですね。
こういう進展はわたしの大いに望むところですし、楽しみなところでもあります。

私は、確かに音楽が大好きなのですが、いかんせん、主観と直感の人間です。
もし私に、傾けるべき「薀蓄」があったなら、そればかりを書き続けるかも知れません(笑」。
語れないまでも、耳を傾けることは大好きです。
といっても今回のコメントについては、目が点になるばかりで私の理解を遥かにこえているのですが(大笑)。
2007年02月24日 04:58
◇Noraさま

> せっかくトラックバックしていただいたので、続けて読む方のために、失礼とは知りながら、コメントさせていただきました。

いえいえ。とんでもございません。むしろ私のTBのほうがご迷惑だったのではないかとの懸念のほうが強いです。
2007年02月24日 05:01
◇Stanesbyさま

>aostaさん、軒下をお貸し下さい。

お貸しできる「軒」が会ってよかったです(笑顔)。
どうぞ、お気の済むまでお使いください。
なんでしたら、そのまま住み着いていただいてもいっこうにかまいません(笑)。

2007年02月24日 13:53
 Stanesbyさん。はじめまして。

 ごあいさつもしないで勝手にコメントしてしまい、申し訳ありません。
 もう気がつかないだろうと思って、こっそり書いたつもりだったのですが・・・・。
 さきほど起きてから、恐る恐る見てみて、真っ青に。
 ば、ばれてる・・・・。

 ほんとうに失礼いたしました。お許しください。
 ご質問の件については、早速「軒下」をお借りしてお答えしようと試みたのですが、文字制限で、十何件もの迷惑コメントになってしまうので、しかたなくわたしのところの記事としてアップしました。

 わたしもこれから出かけないといけないので、乱筆乱文の記事になっていると思いますが、お時間のある時にでも、ぜひいらしていただき、ごらんになってください。では。
nagisa
2007年02月26日 00:01
aostaさん、バッハさんを無視して、すいませんでした。
Stanesby様に突っ込まれてしまいました。
そして、丁寧な説明をありがとうございました。
知らないことが多いです。また付き合ってくださいね。
今、貸してもらった「バッテリー」を読み始めています。
これは、ぜひ読んでおかなくちゃと思って。
aostaさんは、とっくにお読みでしょうね。
2007年02月26日 10:03
◇nagisaさま
いつもコメントありがとうございます。

>バッハさんを無視して・・・

とんでもない!
いつもnagisaさんが、私のブログを見てくださって、感じたことを書いてくださる、そのことが嬉しいんです!
日常のおしゃべりの中では、あっちに飛んだりこっちに飛んだり、話題がかわることは当たり前。(特に女性いの場合ありがちなパターンですね)
その時の気分で、どんどん話が進んで行く、そんなふつうのおしゃべりがブログでも出来るって、すごく素敵なことだと思います。

「バッテリー」!
やはり勧めてくださる方がいて、ずっと気になっているのですが、実はまだ読んでないんです。
ブログでは自分が読んだ本のことしか書かないので(当たり前ですが)、いかにも沢山の本を読んでいるかのような印象になってしまうのかしら(反省)
nagisaさん、よんだらまた感想を聞かせてくださいね。
楽しみにしています。

(この作品、映画化されましたっけ?)
Stanesby
2007年02月26日 19:31
Noraさん、読ませて頂きました。感動しています。そちらにて・・・。
2007年02月27日 06:59
◇Stanesbyさま

私も行ってまいりました。
う~~ん。スゴイです。
続いてアップされている「ブルゴーニュ・シャンソン」の記事も!!
今度はNoraさんのブログでもStanesbyさんにお目にかかれますね!

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