リルケの言葉

ライナー・マリア・りルケ(1875~1927)、カフカと同じく、ハンガリーのプラハ生まれの詩人です。
そして私にとっては、大好きなと言うより、特別な詩人。

でも20代の頃は、若い時期にありがちな一種のポーズでリルケを呼んでいたような気がします。
10年、20年とそれ以上の年月を経て、リルケは静かな輝きと新しい気づきを再び私にもたらしてくれました。



自分に打ち勝つことなど 究極のことではない。

どんな苦しいこと、どんなに腹の立つことにも

最後には私たちを包んでくれる あのおだやかなもの、 優しいものを感じとるような

そういう中心から静かに愛することこそ、究極のことなのだ。


                                   (後期詩集)



画像


ジョージ・フレデリック・ウォッツ 「希望」 (1886)テイト・ギャラリー




もし何かの罪があるとすれば、これこそは罪だ―――

自分が内部に貯えたあらゆる自由を贈って

愛する人の自由を増してやらぬということが。

私たちがおたがいに愛しあうとき、私達がなすべきことはただひとつ、

――たがいに束縛しないということ。

なぜなら、おたがい捕らえてはなさぬことなら、やさしいこと、

いまさら学ぶ必要もないからだ。


                                  (ある女友達のための鎮魂歌)




愛しながら 愛する者から身を解きはなち、

おののきながらそのことに堪えぬく時が来ているのではないか。

ちょうど張りつめた弦(いと)に耐えぬいた矢が 集中した力をもって飛び立つとき

自分「以上のもの」になっているように。


                                    (ドゥイノーの第一の悲歌)





 ☆ジョージ・フレデリック・ウォッツの、この作品を見て、「あ、これはたしか・・・」と,思い当たる方も多いかと思います。

ミッシェル・コルボ指揮によるフォーレの「レクイエム」のCDジャケットに使われているあの作品ですね。
ウォッツにとって最も重要なこと、それは「物を描くのではなく、思想を描く」ことでした。

一人の女神が、地球を思わせる球体に腰を下ろしています。
もしかしたら、彼女は心も身体も傷ついているのかもしれません。
そして、その手には、壊れて一本の弦だけが残っている竪琴が。
彼女は、閉ざされた視界の中で、その一本の弦が奏でるかすかな、しかし幽玄な響きに全身全霊の想いと共に耳を傾けています。
そして彼女が深い深い哀しみの淵から、私たちに届けようとしているものは、その竪琴の響き、心の奥底からくみ出され、ろ過された魂そのものの音楽なのではないか、と私には思えるのです。

彼女の名は希望。

一筋の弦の生み出すかすかな音色と、その振動は、空間を伝わって、私達の魂を震わせていきます。
わたしたちの心をも繋いでゆく大いなる希望、この上もなく豊かで深い、慰めとしての音楽を、
彼女はひたすら紡いでいるのではないか。
私はこの絵を見るたびにそう思うようになりました。



この記事へのコメント

2007年08月18日 20:23
リルケの詩集を抱えた女の子って、文学少女のお嬢様、という感じで憧れでした。私はどうも散文系の頭のようで、詩の良し悪しがよくわかりません・・・
2007年08月19日 09:02
昔、この詩を読みました。
今はすっかり忘れてしまいました。
しかも、この間世界文学全集を全部捨ててしまいました。
もう読まないかなあと。
この項を読んで深く深く後悔したtonaです。
「希望」何て素敵なんでしょう!
2007年08月19日 14:00
自由な魂が希望をささえる・・・
このブログに私は勇気を感じます。
愛するもののために歌いたい。そして奏でたい音があるから。
イエローポスト
2007年08月19日 15:46
言おうとしている部分が似通ってはいないでしょうか
詩には縁遠いので借りて代弁してもらうしかありません。

紀野一義の「心に問うこと」に紹介されていました。
八木重吉の詩はかなしみの花である。かなしみの宝石である。ではどうしてかなしみは花になったか・・・・

詩はなにゆえとうといか
なにものもうばうことができぬせかいであるゆえ
かなしい日はかなしみのみちをゆきくらし
よろこびの日はよろこびのみちをゆきくらし
たんねんにいちねんにあゆんできたゆえ
かすかなまことがみえてきた
じぶんでみつけねばたれも力をかしてくれぬ
このひとすじのたびはつらかったが
こわたれぬせかいがすこしみえてきたかたじけなさ
私を殺さねばこのせかいはうばえぬ
わたしのようにくるしみ
わたしにようにめぐまれてあらねばこのせかいも見えぬ
いつの日かららんらんと見えてくるだろう
いつかははっきりとうたを見ることができるだろう

下線部分はどう読むのでしょう?
八木重吉の詩集「花と空の祈り」を声をだして読むのであるとかかれている。
2007年08月19日 17:21
10代、20代の頃は風船みたいにふわふわしてたので、誰かに紐をしっかりつかんで欲しがってたのに、年を重ねるごとにそのつかんでる紐離してよって思うように。。。
いざ離してもらっても、すでに私は風船じゃなく石みたいに重たくなっててふわふわどころか、どっしりとその場から動けなくなってました(笑)
飛んでくところも思いつかないし。
結局、つながれてる訳でもないのに今の場所でジッと時を過ごしてる。
希望がないと自由は虚しいものになるんだな、と最近学習しました。
イエローポスト
2007年08月20日 00:01
読みにくい下線がぬけているので;
9行 目:こわたれぬ
11行目:めぐまれてあらねば
2007年08月20日 11:50
リルケの詩は読んだことがありませんが、よく話題にしていた若いころの友人の顔を思い出しました。老いてしまったかの友の心の奥底にはまだ詩心が残っているでしょうか。
2007年08月20日 19:10
◇うさみさん こんばんは。

「リルケの詩集を抱えた女の子」のイメージって確かにありましたね。
ですから、リルケ読んでるなんて人には言えませんでした。(笑)
そして私自身、リルケの詩のどこに惹かれたのか良く覚えてはいないのです。ただ美しい言葉のイネージだけで読んだつもりになっていたのかもしれません。
今改めて、読み直してみますと、彼の詩は美しいだけでなく何か凛とした一直線の意思の力が溢れていることを感じます。

時と共に感じ取るものが、変わってゆく・・・
そのことを実感するのも、読むことの大いなる楽しみ。
年を取ることを、豊かな恵みとして受け止められた時でありました。
2007年08月20日 22:38
◇tonaさん、コメントありがとうございます。

世界文学全集、少し前までは確かにあった「全集もの」の権威とか敬意とかの雰囲気は完全に失われてしまったのでしょうか。
古書量販店などでは、行き場を失った全集ものが信じられない値段で並んでいる昨今です。
かつての「一般教養」としての読書の質が低下していることも、全集で読み通そうとする読書人口が激減していることも事実です。
作家にとっても個人全集を出せることが、一種のステイタスでもあった時代はいつの間にか終わってしまいました。
本は繰り返し読むものから、読み捨てのペーパーバックにとその大半が取って代わりました。

小さい頃、本や新聞を床に置いて親にしかられた記憶があります。
言葉や文字がかくも軽薄に扱われる時代がいまだかつてあったでしょうか。

頂いたコメントへのお返事としては、見当違いな内容になってしまいましたね。すみません。
2007年08月20日 22:46
◇かおるさん

>愛するもののために歌いたい。そして奏でたい音があるから。

私の心の中にも歌はあります。
歌うすべはありません。
言葉にならない歌、奏でられることのない歌だからこそ耳を澄ませて欲しい。耳ではなく、心で聴かなくてはなくては聴こえない、密やかな歌があるのですから・・・
2007年08月20日 23:31
◇イエローポストさん

琴線に触れる詩をありがとうございました。

   かなしい日はかなしみのみちをゆきくらし
   よろこびの日はよろこびのみちをゆきくらし
   たんねんにいちねんにあゆんできたゆえ
   かすかなまことがみえてきた

見えてきたと思った「まこと」を再び見失うのではないかという哀しみもあるかもしれません。
それでも。

   わたしのようにくるしみ
   わたしにようにめぐまれてあらねばこのせかいも見えぬ

この言葉にはなんと言う大きな慰めがあることでしょう。
深いキリスト教信仰に根ざした重吉の詩には、透徹した悲しみの果てで、かすかな光りを放つ希望があるような気がします。
2007年08月20日 23:36
◇イエローポストさん

おたずねの「こわたれぬ」
「壊たれぬ」の意ではないかと思われます。
壊されることのない世界が見えてきた、でいかがでしょうか?

もうひとつ、「めぐまれてあらねば」
字の通り、言葉通りに解釈すれば「恵まれていなかったら」ということになりますが
八木重吉がクリスチャンで会ったことを考えると、この「めぐみ」は「神からの恵み」と考えた方が良いかもしれません。
私達人間にとって苦しみであり、悲しみである現実も、神の見えない摂理の前にはすべて意味のあるもの。
その苦しみや悲しみの中で真実を見いだしたとき、その苦しみ哀しみが、初めて恵みとなるという、キリスト教的な認識があるのではないかしら。

素晴らしい詩をありがとうございました。
笛ふきちょろえ
2007年08月21日 07:57
aosutaさん、こんにちは。
『希望』…今まではキラキラと光に満ちたイメージを想っていました。
ですが、確かにこのように静かで、まっすぐな『希望』もあるのですね。

みなさんのコメントにも心が洗われるような気持ちになりました。
みなさま、ありがとうございます。

2007年08月22日 06:12
◇ちょびママさん おはようございます。
 お返事、遅くなりまして、申し訳ありませんでした。

過ぎてゆく時間って、重力みたいなものかもしれません。
重力が身体の動きを鈍磨させると同じように、過ぎていった時の重みは時に精神(こころ)のしなやかな反応を妨げる場合もありますね。
心と身体の自由が時間によって(年を重ねることで)縛られるのではなく、むしろ解放されたい、と思うようになりました。

私個人について言えば、いまのほうが過激(?)かもしれません(笑)
若い頃って、何を見ても「許せないっ」て思っていたような気がします。
年をとってあの頃許せなかったことがを、「もういいんだよ」と笑っていえるようになりました。
人生には「何でもあり」なのだということを、自分でも経験してきたからでしょうか。
2007年08月22日 10:33
◇森の生活さん、こんにちは。

>老いてしまったかの友の心の奥底にはまだ詩心が残っているでしょうか

年齢を重ねる、ということはそれだけ多くの悲しみや痛みを経験すると言うことだと思います。
若い頃には理解できなかった人の痛みを、いくらかなりと、自分のこととして重ね合わせることが出来るようになったような気がいたします。
リルケの詩についても、20代のあの頃とは違う読み方、感じ方が出来るようになったのも、そうした経験を積み重ねてきたひとつの結果かも知れません。
私の場合、自分を縛ってきた幾多のものからの解放は、流した涙の量と比例しているような気がしています。
こんな風に書くと、もう人生が終わってしまったかのようにも感じられるかも知れませんが(笑)、ここから始まる、新しい出会いもあるのだと信じられるようにもなりました。
リルケの詩との再会は、いまの私に大きな勇気と肯定、そして新しい希望をも与えてくれたと思っています。

2007年08月22日 10:57
◇笛ふきちょろえさん、ごめんなさいね。
お返事が遅くなってしまいました。

>『希望』…今まではキラキラと光に満ちたイメージを想っていました。

ギリシャ神話のパンドラの箱のお話をご存知でしょうか。
禁を破って、開けるなと言われていた箱を開いてしまったパンドラ。
箱の中から飛び出してきたものは、苦しみ、悲しみ、妬み、不安・・・
こうした「生きる喜び」を縛るもの達が解き放たれてた後、小さな箱にただひとつ残されていたもの、それが「希望」でした。
これは、私達がイメージする輝かしく光り輝く希望ではなかったかもしれません。
それは、思いがけないほど小さくささやかなものであったのではないかと思うのです。
けれどもこの小さくささやかな希望は、遠くで輝いているイメージとしての希望ではなく、私達に寄り添い、暖かな手をそっと差し伸べてくれる、確かな希望でもあるのだと思います。
2007年08月22日 10:59
私達に「信じる」と言う力が与えられているのは、まさにこの小さな希望ゆえなのではないでしょうか。
もしかしたら、吹けば飛ぶようなかすかな希望、雨風の中で今にも消えそうになりながらその小さな光りを点し続けている、それこそが、今の私の希望です。信じることでそのその炎を燃やし続けているものが希望なのだと思うようになりました。

あんぱん、すごくすごく美味しかったです。
ありがとう
笛ふきちょろえ
2007年08月25日 07:02
aosutaさん、ありがとうございます。
私のこころに “ぽろん♪”と響きました。

ひとりでがむしゃらになっているつもりが、
わたしの周りのたくさんの人が支えていてくれていました。
小さな希望、信じる心、これからも大切にします。


2007年08月26日 06:11
◇笛ふきちょろえさん、おはようございます。

>私のこころに “ぽろん♪”と響きました。

最近、私は自分の言葉が多すぎるのではないかと、ちょっと不安に思っていました。
伝えたいことに一生懸命になっても、多すぎる言葉は逆に空しいのではなかろうか・・・などなど、考えていたのです。
でも、一歩下がって眺めてみたら、ちょろえちゃんが、心を開いてくださっていたからこそ、何かが「伝わった」んですよね!
そう気が付いてとてもうれしくなりました。

ありがとう!!

2007年09月04日 22:23
はじめまして。
わたしは、「若き詩人への手紙」でリルケと出会いました。
心の底を突くような言葉に、自身を支える力を与えられているような気がしました。
今はまだ20代でふわふわした感覚が未だとれずに、まださまよい続けています。

美しさという言葉が、本当に表しているのはリルケ、そしてこの希望という名の女性のような気がしました。

このページに出会い、安らぎを感じました。

2007年09月04日 23:17
◇withwishさん
 
ようこそお出でくださいました。

>わたしは、「若き詩人への手紙」でリルケと出会いました。

「若き詩人への手紙」そして「形象詩集」が私の20代の形作ったのだと今になって思います。
そのときはまだ十分に熟成していなかった言葉が、長い時間を経て少しづつはっきりとした輪郭と実体をともなって立ち上がってきたような、と言ったらいいのでしょうか。

>今はまだ20代でふわふわした感覚が未だとれずに、まださまよい続けています。

時は必ず巡ります。
withwishの「時」もまたいつか熟するときが来るのだと思います。

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